4.「灰色の男たちの世界」の中にある「モモのつくる社会」
灰色の男たちが生きた時間を直接搾取できずに死んだ時間に変えて搾取するしかないと、「生きた時間」と「死んだ時間」を対比させてきましたが、物語によれば、灰色の男たちが生きていくために摂取する「時間」は、「生きた時間」としての「時間の花」でした。すでに死んでいる時間では生命を維持できないとされているのです。時間の花を殺さないために、彼らはそれを冷凍保存しています。でも、生きたままでは摂取できないので葉巻にして火をつけて摂取するという、ややこしいやり方を採っています。それは、単純に「生きた時間」と「死んだ時間」を二律背反的に対比することができないことを意味しています。「灰色の男たちの世界」においても、「死んだ時間」のなかに「生きた時間」がなければならないとされているのです。
このことは、「灰色の男たちの世界」と「モモのつくる世界」の対立・対比もまた、一方が他方を排斥してしまうような対比・対立ではないということを意味しています。「灰色」一色に見える現代社会のなかにも、「モモのつくる小さな社会」はあるということです。そこにこそ、「希望」があるといえるのではないかと思います。「灰色の男たちの世界」と「モモのつくる世界」のせめぎ合いはどちらか一方が勝利して相手の世界を破壊しつくして消滅させて終わるのではなく、「灰色の男たちの世界」に社会がおおわれてしまったようにみえる世界(現代社会)においても、ずっと続いているのです。というのも、「生きた時間」と「死んだ時間」の説明に現れているように、すべてが数量化された比較可能で交換可能な商品に変わってしまったようにみえる「灰色の男たちの世界」も、「生きた時間」を搾取するために、単独性どうしの関係からなる「モモのつくる世界」を必要としているのです。いいかえれば、「モモのつくる小さな社会」(これをレヴィ=ストロースは「真正な社会」と呼んだのでした)は、どんな社会においてもなくてはならない基礎的な社会であり、それには人類学的な普遍性があるのです。それは、システムとしての「灰色の男たちの世界」にとっても必要不可欠のものです。そこに、「灰色の男たちの世界」の弱みがあり、モモたちあるいは私たちの「希望」があるのです。
つまり、「モモのつくる社会」と「灰色の男たちの世界」の対立が同じ水準にある相互排斥的な対立ではなく、一方の項である「モモのつくる社会」は、人類学的普遍性をもつ基礎的なものであり、もう一方の「灰色の男たちの世界」の基底にも存在しているような対立になっているという点が重要です。そのことは、そのまま、単独性どうしの関係(第4回で述べたように哲学者のネグリとハートは、単独性どうしの関係による仲間のつながりを「コモン=共」と呼んでいます)と代替可能な関係からなるシステムとの対立にも言えることです。
システムと単独性どうしの関係のこのような対立にこそ、人類学独自の視点、世界の見方や問題の提起の仕方があるというのが、この連載で示したいことなのです。その独自の視点とは、レヴィ=ストロースが提唱した「真正性の水準」(ほんもの性による区別)という独特の社会の様態の区別の仕方を基盤にしています。真正性の水準については、連載の第6回で述べましたが、もう一度確認しておくと、それは、「5000人の人間は、500人と同じやり方では一つの社会を構成することはできない」というシンプルだけれども、社会様態の根本的な区別のことです。5000人以上の社会では、単独性どうしの関係は困難になります。そのような社会は、人と人との関係がメディアや法や貨幣といった媒体によって結ばれる、間接的なものになります。間接的な関係においては、人それぞれの単独性を把握することができなくなるのです。「モモのつくる小さな社会」が単独性どうしのつながりによって作られているのは、人との関係が直接的で顔のある関係だからであり、そのような真正な社会は大規模な社会では成り立たないというわけです。
では、大規模な社会、非真正な社会になっている現代社会や都市では、真正な社会はなくなっているのかといえば、レヴィ=ストロースはそうではないと言います。非真正な社会にも真正な社会がまったく欠けているわけではなく、「『まがいもの』らしさのしるしを帯びた、より広大な全体のなかに、部分的で不充分であれ『真正性』をそなえた集団が島のように点在する」[レヴィ=ストロース 2005:45]と述べています。そして、非真正な社会のなかの「真正性」をそなえた集団として、企業や都市のなかの近隣(英語で「ネイバーフッド」と呼んでいるもの)を挙げています。
つまり、職場の仲間や近所の仲間(若者たちが「ジモト」と呼んでいるもの)に、「真正な社会」が部分的で不充分な形態であれ、存在し続けているというのです。逆にいえば、そのような真正性、すなわち単独性どうしのつながりやコモン=〈共〉なしには人類の社会はなりたたないのです。そこには、分配=シェアリングの経済、贈与経済が生きており、そこでこそ、「生きた時間」や「かけがえのない私」という実感や「居場所」をえることができるのですが、そのような分配=シェアリング=共有の「喜び」や、かけがえのなさの実感による「安心」は、とるにたらないものやあればよい程度のおまけではなく、人が生きるうえで不可欠なもの(すなわち「真正性」)なのだということが重要です。それが、人類学的な普遍性をもつということは、人類のどんな社会にも不可欠であるということを示しているのです。
【参考文献】
エンデ、ミヒャエル
2005 『モモ』大島かおり訳、岩波少年文庫
レヴィ=ストロース、クロード
2005 『レヴィ=ストロース講義』川田順造/渡辺公三訳、平凡社ライブラリー