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第4回:0円生活の「公・共・私」

4.コモン=共

 坂口さんの『TOKYO 0円ハウス0円生活』を読んだ感想を何人かに聞いたとき、「面白かったけれど、犯罪のようなことを称賛するのはどうなのだろう」という趣旨のことを述べてくれた人がいました。坂口さんも、あとがきで「隅田川に家を建てるという行為は許されているものではない。しかし鈴木さんの家を調べれば調べるほど、なぜこの生活が許されず、周りには巨大な建造物が建っていくのか、正直分からなくなっていった」[坂口 2011:288]と書いているように、鈴木さんのやっていることは「不法行為」とされています。河川敷に家などの工作物を建てることは河川法第26条に違反した行為だからです。けれども、川沿いに家を建てて住む人にこの法律が適用されて罰則を受けたケースはないようです。
 ただし、この法律違反に対して行政がなにもしないわけではありません。隅田川沿いでは、管理者である国交省が月に1度、河川敷の「撤去」を行なっています。1週間前にそれぞれの家に一時撤去を知らせる貼り紙がされ、当日の撤去が始まる午前10時には、隅田川沿いに住む人たち全員が家を解体し、何もない状態に戻すわけです。そこで一時撤去していない家があればゴミとして撤去されます。国交省の役人と清掃をする人たちが帰ると、住民たちはすぐにまた同じ場所に家を組み立てて、「一時撤去の日」が終わります。「鈴木さんは国交省の人とはもちろん顔見知りで、ちゃんと理解してもらっているそうだ。建前上は撤去しなくてはならないので実行するが、なぜか『すみません』と国交省の人が言うんだよと鈴木さんは言っていた」[坂口 2011:164]と、坂口さんは書いています。また、『隅田川のエジソン』によれば、この日は住民が総出になるので、ふだんは話さない人とも話す機会となり、情報を交換したり物々交換したり、「祭りのようでもあった」し、「さながら闇市のような景色だ」といいます[坂口 2012a:171]。

 この「一時撤去」(住民たちは「刈り込み」と呼んでいます)について、どういう印象を持ちましたか。このような「馴れ合い」に対して怒る人もいるかもしれませんが、その馴れ合いにも非対称性というか「ずれ」があるのが面白いところです。国交省が「一時撤去」を毎月実施するのは、そこに「不法行為などない」ということを確認するためでしょう。ちゃんと調査に行ったら不法占拠をしている家などなかったというためです。しかし、それは同時に河川敷の「不法占拠」(スクォッティング)を事実上容認しているとも言えます。その容認の理屈は、「緊急避難」ということでしょう。たとえば、2008年末の日比谷公園の「年越し派遣村」でも、そこでのテント生活を容認しました。派遣切りで社員宿舎からも追い出された派遣労働者の住むところを用意するための緊急措置でしたが、それと同じだと言えます。その一方で、行政は、「不法占拠」状態を解消するための手立ても講じています。

 一時撤去はかなりの重労働である。月に一度、大掃除と引っ越しをしているようなものである。これは50歳半ばの路上生活者にとっては、かなり大きな負担になっているようだ。実際に、この一時撤去がきついために、東京都が格安で貸してくれるアパートに移っていく人が増えた。そのため現在では隅田川沿いの0円ハウスは全盛期より大分減っている。鈴木さんの友人たちも、ほとんどがアパートに移ってしまったらしく、現在は宴会場も姿を消してしまっている。
 この東京都が貸してくれるアパートだが、月3000円で貸してくれるのだそうだ。期間は2年間。この間に仕事を見つけてどうにか路上生活を抜け出そう、という政策のようだが、仕事を見つけるのはなかなか難しいようだ。
 しかも、1度隅田川を出たら、もう2度とここには戻ってこられない決まりになっているようだ。これでは、ただ隅田川から路上生活者を追い出したいだけのように見えてしまう。……仕事が得られなかった人たちは隅田川には戻れず、また路上へ移ることになってしまう。[坂口 2011:160-161]

4-1.「公・共・私」の捉え方

 しかし、鈴木さんはそのような政策に見向きもしません。それは、鈴木さんたちのような野宿者にとって、川沿いでの生活はたんなる「緊急避難」ではなく、贈与と分配、すなわち自治的な相互扶助による持続的な生活だからでしょう。坂口さんのいうように、「家を自力で作っていることや、自分で考えて工夫して生活していることなどと切り離しては考えられない」ものです。そのような「自力救済」による持続的な「占拠」生活は、世界中に見られます。ただし、その「自力」の基盤に「他力」があること、つまり相互扶助的な分配(分かちあい)による「自治」であることを見落とさないことが重要です。

 ここで、ブリコラージュについでもう一つキーワードを出したいと思います。それは「コモン」という語です。英語でコモン(common)というと「共同の」「共有の」という意味の形容詞でもありますが、名詞で使うときは「コモンズ」という複数形で共有地・共有物を指す語としてよく使われるので聞いたことがあるかもしれません。ここでは、土地やモノだけではなく、みんなで使う情報や関係(つながり)なども指す語として、単数形の「コモン」を使いたいと思います。そして、訳語としては「」という語を使うことにしましょう。鈴木さんたちがつくっていた「自分たちの共同的な場」でのつながりは、まさに「コモン=共」と呼べるものでした。
 哲学者のアントニオ・ネグリ*1とマイケル・ハート*2は、『コモンウェルス』という本の中で、私有制を基盤とする近代資本主義社会では、たとえば土地は公有(パブリック)と私有(プライベート)のどちらかしかないために、昔からある共有(コモン)が見えにくくなっていると指摘しています。そして、ネグリとハートは、もう一つ重要なことを指摘しています。それは、コモン=共でのつながりは個人が集団に埋没しているのではなく、個人が特異的・単独的な存在のままつながっているのだということです。つまり、コモンは特異性・単独性どうしのつながりなのです。
 ここで使った「特異性・単独性」は、2冊目に取り上げるエンデ*3の『モモ』というファンタジーを読むときのキーワードでもありますが、ここでも説明しておきましょう。この「特異性・単独性」は英語のシンギュラリティ(singularity)の訳語で、唯一無二の存在、他が変わることのできない「かけがえのなさ(代替不可能性)」を意味しています。「特異性」という訳語は、特に異なっているという意味になってしまい、人と違う個性のような意味を連想させてしまいますから、訳語としては「単独性」のほうが誤解しにくいので、そちらを使いたいと思います。ただ、単独性という言葉じたいがわかりにくいという欠点はありますが。「かけがえのなさ」としての単独性は、個性とは関係ありません。双子もそれぞれ単独的な存在ですし、人と比べてこれといって特徴がなくても、身近な人にとっては誰にも代替できないかけがえのない存在です。そもそも単独性は比較不可能な存在だということなのです。

4-2.「かけがえのなさ」とは

 鈴木さんは、「ギブ&ギブ&ギブ」という贈与によってつくりだした関係について、「人は見かけではないことを、分かってくれる人がいるから、幸せだよ」という実感として語っていました。見かけで人を判断するというのは、あの人はホームレスだ、この人はきちんとした身なりをしているからちゃんとした会社員か公務員だろうと見なすことで、要するに人を外見や肩書でみるということです。そのように比較によって人を見るということは、その人そのものを見ていないということで、そこに単独性やかけがえのなさはありません。ホームレスか会社員かというカテゴリーがあるだけです。「人は見かけではない」というのは、そこに、単独性どうしのつながりとしてのコモン=共があるということです。そのような実感があれば、だれでもそれだけで「幸せだよ」という状態になれるし、まただれでも「自分の能力に応じて考えて工夫する生活」ができるようになるのです。
 私有か公有かしか認めない国(国交省)は、そのような「コモン」によって共同で生きている人たちを「不法占拠者」とみなします(鈴木さんたちと顔見知りになった役人たちは、個人として「すみません」と謝っており、半分は鈴木さんたちをかけがえのない人として見ているのですが)。その河川敷が公有地であるという理由で、そこをコモンとして使っている人たちをなんとか排除しようとします。その人たちに対する「支援」も、アパートを斡旋してそこに住んでもらうという支援策で、私有する部屋は、賃貸であっても誰かの私有物であり、そのような私有制度をもとに家賃を取るという契約が成立するわけです。つまり、その支援は、コモン=共のつながりを切断するものに他なりません。
 けれども、行政が切断しようとしている「コモン=共」は、ときに河川敷の住民たちを越えて、付近の住民たちにまで広がっていきます。たとえば、現在、上に挙げたような「支援策」の一方で、各自治体は、2008年以降、「資源ごみ持ち去り禁止条例」を制定しています。住民からの苦情やトラックで大量に持ち去る悪質業者が組織的に回収していることなどを理由に挙げているようですが、野宿者やホームレスのささやかな収入源を断つことになる(いまのところホームレスが警察に告発されたケースはないようですが)と、ホームレス支援団体が各地で抗議をしましたが、その効果もなく、墨田区を含む多くの自治体が条例をつぎつぎと制定しています。支援団体は、自治体がホームレスを告発しなくても、空き缶を回収しているホームレスに住民たちが「違法行為をするな」などと非難して事実上回収できなくなるとも指摘しています。

4-3.空き缶の「贈与」が結ぶ結節点

 このように、行政がいろいろな手でコモンを排除しようしている状況のなかで、同じような条例を制定している芦屋市で、住民たちが自主的にホームレスの人たちに渡しているのだと主張して、市に「取り締まり対象外」を認めさせたゴミ集積ステーションが市内に1カ所あるというニュースがありました(神戸新聞NEXT 2014/7/14)。つまり、空き缶を「贈与」しているわけです。鈴木さんもまた、ステーションの空き缶を取るのではなく、空き缶を「贈与」してくれるように交渉して贈与の「契約」を結んでいました。また、ゴミ収集場から空き缶を回収する場合でも、そこをきれいにするなどの「お返し」をしていました。芦屋市のその地区の住民たちと野宿者の人たちとのあいだにも、ふだんからそのような「贈与」のつながりがあったのでしょう。そのつながりは、「人は見かけではないことを、分かってくれる人」たちとの単独性のつながり、すなわちコモンだったのではないでしょうか。そして、そのことは、このような条例による管理や締め付けが厳しくなっても、そこに、単独性どうしのコモンのつながりによって「穴」(たとえ市全体で1カ所という小さな穴であっても)を開けられるのだということを示しているように思います。

 単独性どうしのつながりというと、窮屈で閉塞的な印象を与えるかもしれません。けれども、鈴木さんと地域の人びととのつながりは単独性どうしの関係ですが、しょっちゅう顔をあわせるわけではなく、非常に限定された場面での関係であり、部分的な関係です。しかし、それは互いに自由に断ち切ることを想定していないという意味で、持続的なものです。部分的であるから窮屈な束縛にはならないけれども、持続するという点では縛られているものになっています。それは贈与の関係の特徴でもあります。つまり、部分的だけれども人をその関係に持続的につなぎとめるものなのです。現代では、持続的関係というと束縛とかしがらみといったイメージをもつことが多く、そのためにいつでも自由に断ち切ることのできる気楽な関係を求める傾向があります。しかし、共同体やコモンをつくる持続的な関係は、現代人が窮屈なイメージをもつ「全人格的関係」ではなく、たいてい部分的な関係です。重要なのはその単独性どうしのつながりが「終わることを想定していない関係」だということにあります。困ったときに相互扶助や贈与経済の相手となるためには、この「終わらない関係」があるということが大事なのです。それを「束縛」と感じて切り捨ててきたのが現代社会でした。その切り捨てによって、人びとは個々ばらばらにシステムに依存せざるを得なくなり、各人がシステムによって代替可能・交換可能な存在になってしまっています(この「システム」についても、2冊目の『モモ』を読むときに説明します)。
 鈴木さんたちの生活は、システムに完全に絡め取られているようにみえる現代社会で、管理の隙間をとらえて、システムに依拠しない生活が可能だということを示してくれている点で、私たちに何か希望のようなものを与えてくれます。たとえ自分が「不法占拠」による自律的生活という実践には踏み切れなくても、単独性どうしのコモンによって、いろいろな場で「穴」をうがつことが可能なのだという希望を贈与してくれているのです。
 鈴木さんは、国交省の人とも顔のある関係を結ぶとか、自分に空き缶を「贈与」してくれるように交渉して贈与の「契約」を結んでいるとか、できるだけ、システムによる管理とは衝突しないようにしながら、システムの原理とは異なる「贈与」による空間を創りだすことによってシステムに絡め取られない生活をしているようにみえます。坂口さんは、鈴木さんの生活を、「人間的な生活を送るために0円生活をやっているというようにも取ることができる」と書いていました。たしかに、それは自分の土地でもないところに家を建てるという点では、「不法行為」とされます。国交省や自治体が(つまりシステムが)「大目に見ている」から成り立つのだと言われるかもしれません。けれども、それが成り立っている基盤は、そのような危ういものではなく、もうちょっと広い、人類史的に普遍的なものだと言えます。つまり、それは、世界中で見られるスクォッティング(「空間占拠」)の根拠となっているものがそうであるように、(坂口さんが『独立国家のつくりかた』で使っていることばを借りれば)「人間は土地を所有できない」という普遍的な感覚のうえに成り立っているのです。つまり、恣意的に「大目に見ている」というより、そのような普遍的な感覚が「金銭的な価値を基準にした生活」(これは「土地を所有できる」というフィクションの上の生活です)の基層にもあるからこそ、どんな国でも「大目に見ざるをえない」のでしょう(日本は「大目に見ない」国のほうに入りますが)。

 次回も『TOKYO 0円ハウス0円生活』を読み進めていきます。


【参考文献】

坂口恭平
 2011 『TOKYO 0円ハウス0円生活』河出文庫(初版2008年、大和書房)
   2012a 『隅田川のエジソン』幻冬舎文庫
 2012b 『独立国家のつくりかた』講談社現代新書
ネグリ、アントニオ/マイケル・ハート
 2012 『コモンウェルス』(上下)水嶋一憲監訳、NHKブックス

*1:アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)
1933年生まれ。哲学者、政治活動家。マイケル・ハートとの共著『〈帝国〉』では、グローバリゼーションの進展に伴い出現している主権の形態を〈帝国〉と捉え、注目を浴びる。

*2:マイケル・ハート(Michael Hardt)
1960年生まれ。哲学者、比較文学者。ワシントン大学で博士号取得後、パリ第8大学で亡命中のアントニオ・ネグリに師事。

*3:ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)
1929~1995年。児童文学作家。『モモ』の他に『はてしない物語』、『鏡のなかの鏡-迷宮-』などがある。

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