第3回:0円生活にみる「人間的な生活」

3.贈与・分配

 では、前回の鈴木さんのブリコラージュ生活に引き続き、彼の周りの社会における「贈与・分配」というやり取りを見ていきましょう。ここで「贈与・分配」という言い方をしていますが、厳密に学術用語として使うとするなら、贈与と分配とは異なったもののやり取りになります。ただ、ここでは、贈与はいつか返さなければならないもの、分配はその場のみんなで分かちあうこと、ぐらいに理解しておくので十分です。鈴木さんの周りには、贈与や分配があふれています。

「そうして試していると、テレビでもラジオでもステレオでも全部このバッテリーで使えるじゃないの。びっくりしたよ」
 それはびっくりです。たぶん、ほとんどの人が知らないでしょう。そして「隅田川のエジソン」はそれの特許を取ることなんか考えず(まあ、特許は取れないでしょうが)、電気文明を無償で広めるのである。
「そのころ、本当にたくさんのバッテリーやらバイクやらが落ちてたからね。何軒分でも作れたね」
「タダですか?」
「もちろんだよ。本当に喜ばれたよ。ここではなんでもお互い様。何かをあげると、何かを持ってやってくるからね。うまくできているんですよ」
 本当の物々交換の社会が鈴木さんの周りには存在しているようである。[坂口 2011:69-70]

 このように、鈴木さんの周りの社会は、贈与と分配によって動いています。坂口さんは「本当の物々交換」と(おそらく貨幣を使わないやり取りという意味で)書いていますが、文化人類学の用語としては、物々交換は「貨幣を使わない市場交換」という意味で使われる術語で、売り買いと同じ相互利益を求めるやり取りを指します。そこで、ここでは「贈与交換」や「分配」という語を使います。

3-1.贈与と分配から生まれるコミュニティ

 そして、贈与や分配が行なわれている場には人びとも集まってきます。そのように集まってきた人びとが「自分たちの共同的な場」をつくり出し、そういう場でさらに贈与や分配がなされていきます。鈴木さんが、隅田川沿いでの0円ハウス生活も悪くない、やっていけそうだと感じたのは、そのような「共同的な場」の力によるものでした。

 お湯の力はすさまじい。お湯は皆に驚きと喜びと勇気を与えた。そして、いつしか鈴木さんを中心としたコミュニティーが形成されていたのである。そして、楽天家の鈴木さんは、この現象に対して、
「感動して、これはやめられないと思ったね。そうやって人が集まるってことは素晴らしいよ。他ではなかなかないだろ」
と、僕にも熱っぽく語った。そりゃそうでしょ、と僕も思った。その時を境に鈴木さんは隅田川沿いの0円生活になんらかの希望を感じるようになったようだ。
「なんでもやってみると面白いもんだよ」
 鈴木さんが言うとその言葉はさらに重い。
「工夫するのが好きなのよ。そしてこの生活は工夫すればするほど面白くなっていくわけよ」
 鈴木さんは快感と充実感を得ているように見えた。自分の生活を工夫して続けていくことの興奮、そしてそれによって得た技術を広めることによって生じる人の輪。この二つが絡み合って鈴木さんの本能をくすぐっていたようだ。[坂口 2011:80-81]

 

 鈴木さんは、前はテレフォンカード、いまは空き缶を収集してそれを売って現金を得ていますが、そのやり方を教わったのは、鈴木さんが「師匠」と呼ぶ、ウジイエさんからでした。ウジイエさんの周りには人とともに情報も集まっています。その場でも贈与と分配によるものや情報のやり取りと相互扶助(助け合い)が見られます。

 

 鈴木さんはウジイエさんのおかげで自活できるようになっていく。で、それで稼いだお金で食材などを購入し、ウジイエさんにも気持ちを返していた。
「ウジイエさんは、その二つの仕事のプロなんですか」
「いいや、それがあの人は一切働かないんだよ」
 はい? どういうことですか。
「意味が分からないんですけど」
「ウジイエさんは、人柄がいいんで、なんでも集まってきちゃうんだよ」
 ウジイエさん恐るべしである。その天性の人柄で、みんなが集まってくるようになり、ついでにいろんなものを持ってきてくれるらしい。そんなふうにみんなが集まる場所だったからこそいろんな情報が集まってきていた。さらにその情報を求め、周りからは人が集まる。人柄による、0円相乗効果が起こっていた。さらにその輪は路上生活者だけではなく、普通に働いている人たちにも広がっていったそうだ。[坂口 2011:84-85]

 

「うまくいっているところは、うまくいっている。やっぱり一番重要なのは人柄なんだよね」
と鈴木さんは浅草付近のお店について、そう言っていた。
 鈴木さんと、アルミ缶拾いの契約をしている人との関係や、自転車をくれた会社員との関係を見ると、この「まんぷく」や「スナック虎」に対する視点は、そのまま自分の生活に対しても向けられているのではないか。後述するが、毎年服を持ってきてくれる洋服屋の社長までいるのだ。
 こういう鈴木さんの視点には、彼が0円生活をする理由のようなものが見え隠れしているように思える。
 鈴木さんは、「工夫して暮らす」ことがとても面白いからこの生活をしていると言っていた。そして、コンクリートの家には住みたくないとも言っていた。
 これらの言葉は、金銭的な価値を基準にした生活ではなく、人間的な生活を送るために0円生活をやっているというようにも取ることができる。都市というところは、その中間が存在しないところなのかもしれない。人はどちらかを選択しなければいけないのだろうか。[坂口 2011:120-121]

 ここでは、0円ハウスの「人間的な生活」と「金銭的な価値を基準にした生活」とが対比されています。ふつう、路上生活者や野宿者(家に住んでいるのだから「野宿者」という呼びかたも正しくないと思いますが)は、「非人間的な生活」をしているから救済しなければならないと考えられていますが(社会学者のホームレス・野宿者の研究は基本的にはそのような立場からされています)、ここでは鈴木さんたち路上生活者の生活を坂口さんが「人間的な生活」としている点に注目したいと思います。

3-2.「人間的な生活」を生きるとは

 坂口さんは、都市というところは、「人間的な生活」と「金銭的な価値を基準にした生活」の中間がなく、どちらかを選択しなければならないのだろうかと問うています。ほんとうに「中間」がなく、どちらかを二者択一で選ばなければならないとしたら、その選択はかなり絶望的なものとなります。しかし、「中間」がないように見えるのは、「金銭的な価値を基準にした生活」の側から見ているからかもしれません。そこでは、0円ハウス生活のような暮らし方は抑圧され排除されています。その抑圧と排除によって明確に分割されているから、中間がないようにみえるのです。そうではなくて、「金銭的な価値を基準にした生活」を強いられているところでも、その基層には0円ハウス生活的な「人間的な生活」があるのだと考えることもできます。

 友達や親しい人との間では、私たちも金銭的な価値など考えないやり取りをしています。そこでは、マルクス*1が共産主義(コミューン主義)の定義として引用したことで有名になったことば(もともとは工場で働く人びとが酒場で理想の社会を言い表すのに唱えたことばだったようです)を使えば、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という社会が実現しています。鈴木さんの0円生活の師匠であるウジイエさんは一見なにも労働していないようですが、まさに共同的な場を作り出すという能力を発揮しています。なかにはそのように目に見えた活躍をしていない人もいるでしょう。でもそのような人も集まることでにぎわいを作り出しています。それぞれの能力に応じて自分たちの場を作っているのです。そして、どれくらい何を提供したかとは無関係に、自分たちの場を作っている人はみな必要に応じて、当然のこととして分け与えられるのです。人類学者で社会活動家のデヴィッド・グレーバー*2は、そのようなやり取りのつながりを「共産主義的関係」と呼び、そのような関係はどこにでもあると言っています[グレーバー 2009:91]。つまり、そのようなやり取りを「人類学的普遍性」がある関係として捉えてはどうかということです。
 鈴木さんの0円ハウス生活における贈与と分配は、「ギブ&テイクではなくて、ギブ&ギブ&ギブ」、すなわち「与え続けること」によって成り立っていると述べられています。もちろん、鈴木さんも、たとえば洋服メーカーの社長さんから毎年新しい服を貰ったり(その社長さんには鈴木さんのほうから最初に贈与していましたが)、空き缶を「契約」によってもらったりしているように、与えるだけではなく与えられてもいるわけですが、そのような贈与も「ギブ&ギブ&ギブ」というコミュニケーションによって生じたものというわけです。そして、いつかお返しをしなきゃという贈与の関係の特徴は、売買(市場交換)とは違って、終わることを想定していない関係として続いていくことにあります。

 鈴木さんのコミュニケーション能力には計り知れないものがある。1回きりではないのだ。常に関係性が持続していくのである。しかも、損得を気にしてやっているのでは一切ない。それよりも人間同士の結びつきの方に力を入れている。
「そうやった方が、なんでもうまくいくんだよ」
 鈴木さんはそう言った。自分でも分かってやっているのだ。ギブ&テイクではなくて、ギブ&ギブ&ギブ。与え続けること。
「世の中には素晴らしい人たちがたくさんいるのよ」
 鈴木さんの言葉には真実味がある。
「人は見かけではないことを、分かってくれる人がいるから、幸せだよ」
 その実感が彼の生活を満ち足りたものにしている。
 僕はそういう鈴木さんの態度や姿勢は、家を自力で作っていることや、自分で考えて工夫して生活していることなどと切り離しては考えられないと思う。すべてが一体で自分の考えで行っているからこその余裕であり、豊かさだと思う。それは金銭的な豊かさとは全く別のものである。そんな生活を僕たちは忘れてはいけない。家のことだけを考えていても駄目だ。生活を向上させることだけを求めるというのも違う。
 毎回毎回、いろんな話を聞くたびに僕は立ち止まって考えてしまう。[坂口 2011:142-143]

 次回は、坂口さんと同じように私たちも立ち止まって考えてみましょう。

 

【参考文献】
グレーバー、デヴィッド
 2009 『資本主義後の世界のために――新しいアナーキズムの視座』高祖岩三郎訳編、以文社
坂口恭平
 2011 『TOKYO0円ハウス0円生活』河出文庫(初版2008年、大和書房)

*1:カール・マルクス(Karl Heinrich Marx)
1818~1883年.哲学者、経済学者。『資本論』(未完)によって資本主義の最も根源的な理論を提起した。その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。

*2:デヴィッド・グレーバー(David Graeber)
1961年生まれ。世界の反グローバリゼーション運動に強い影響力をもつ人類学者。著書に『アナーキスト人類学のための断章』(以文社)などがある。

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