第27回:衣服の記号論

3.記号とブリコラージュ――あるいはモノの単独性について

3-1.制服という記号

 鷲田さんのこの本(『ちぐはぐな身体』)は、衣服やファッションを「記号」として扱った本だということができます。つまり、衣服の記号論ともいえます。ただし、衣服を記号だというとき、それは衣服が着る人の地位や職業や性別や年齢やキャラ(つまり同一性)を示す記号だということだけではありません。同一性を表す記号としての衣服の典型が「制服」ですが、鷲田さんは、この本の中で、制服についていろいろ考察して、制服が制度的な同一性に人を従順に縛り付けておくものといった、一筋縄の単純な「記号」ではないことを論じています。たとえば、鷲田さんは、制服を着崩すことが抵抗の表現になるだけではなく、制服の「裏の顔」として、「制服へのいわば裏返されたまなざし」、すなわち、コスチューム・プレイや着せ替え、異性装、セーラー服願望など、制服への執拗なフェティシズムについて触れています。それらは、「規律への従順さを表わす制服が、まさにその従順さを凌辱(りょうじょく)するようなまなざしを呼びよせるという側面」を挙げています[鷲田 2005:63-64]。
 さらに、制服が、「個性的でなければならない」「じぶんらしくなければならない」という、現代社会特有の「個性化信仰」からの、いわば「隠れ家」になるということも指摘して、つぎのように言っています。

 個人を匿名の《属性》へと還元するという意味で、制服は一種の「疎外」のマークであるが、同時にそのようにして個人を、つねに同じ存在でいなければならないという《同一性》の枠から外してくれるという意味で、ひとをつかのま解放してくれる(あるいは緩めてくれる)装置でもあるのだ。[鷲田 2005:170-171]

 この「個性信仰」の「個性」は、この連載で「単独性」の説明をしたときに述べたように、個人の代替不可能性や比較不可能性を表すものではなく、いわゆる「キャラ」と同じように、比較可能で代替可能なものです。その意味で、「個性」とは地位や身分などと同じく、ひとを同一性に縛りつける〈属性〉のひとつにすぎません。制服は、そのような〈属性〉や〈同一性〉としての「個性」から一時的に解放してくれる「隠れ家」にも使えるというわけです。これなどは、制度的な同一性を表すという制服の目的を「はずし」て「ずらす」という、制服を「流用」した抵抗のしかたといえるでしょう。

3-2.同一性からの逸脱

 このように、記号としての制服にも、同一性を表すということから逸脱している、多様な側面があります。記号論(記号学・文化記号論)という分野は、むしろ、そのような逸脱的な記号に焦点を当てたものでした。
 そのような記号論に大きな影響を与えたのが、人類学者のレヴィ=ストロース*1です。この連載の最初の、坂口恭平さん*2の本のところで、ブリコラージュ(あり合わせのモノで間に合わせの仕事をすること)というキーワードを取り上げたときに述べておいたように、レヴィ=ストロースは、ブリコラージュをする人(ブリコルール)と、近代的な思考をするエンジニア(技師)を対比させて、エンジニアの用いるモノは「概念」だけれども、ブリコルールの用いるモノは「記号」なのだと言っています。「概念」は、エンジニアの用いるモノとしての「部品」と同じように、意味(機能)の同一性をもっています。部品の機能(意味)があらかじめ明確に決まっていないと、部品としては使えません。他方、ブリコルールの用いる「記号」は、意味(機能)の同一性が明確になっていないモノであり、だからこそ他にもいろいろ使えるような潜在的可能性や、そのモノのそれまでの来歴や感性的特性などを保持したままになっています。レヴィ=ストロースは、その違いについて、「概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、記号の方はこの現実の中に人間性がある厚味をもって入り込んでくることを容認し、さらにはそれを要求することさえあるという所にある」[レヴィ=ストロース 1976:26]と述べています。
 エンジニアの用いる「概念」は、部品のように取り換えても気づかれないような、それ自身「現実に対して全的に透明」であること、つまり同一性と代替可能性をもつようなモノです。そのような部品=概念は、純化された対立によって作られています。その「純化」による同一性の確保は、鷲田さんが現代社会の「清潔願望」にみる純化と同じものです。同一性が脅かされるとき、ひとは、じぶんの境界を侵すような混じり合いを恐怖して、同じことを反復するとか(反復可能な同一性を求めているわけです)、「中身のあいまいな話はしないで、論理的に筋の通ったはなし」をするような「過剰な合理主義」によって、その境界を明確にしようとします。そして、それもできないときには、「ぼくらはじぶんでないもの、他なるものの感染、あるいはそれとの接触を徹底して回避しようとする」[鷲田 2005:131]という、「清潔症候群」に陥ると、鷲田さんは指摘しています。そのような「過剰な合理主義」や「清潔願望」は、近代的思考の特徴でもあります。

3-3.システムへの抵抗=単独性の回復

 実は、鷲田さんの「清潔願望」についてのこのような指摘は、さきに引用した、「ドジな教師や看護師の話」の直前でなされている話です。役割的同一性を完璧にこなす「優秀な教師や看護師」は、「じぶんは生徒や患者という他者たちと関係を持たなくても〈わたし〉でありうるという錯覚にとらわれて」いる存在でした。そのような近代の専門家システムも、他なるものとの接触・交流を避けて、じぶんがじぶんだけで自律していると錯覚することによって成立しているのです。つまり、近代というシステムは、「自」というものが他なるものに依存しているのではなく、そのような他との直接的な関係なしに確立しうる同一性をもっている、自は他との関係から明確に切り離すことができるという錯覚の上にかろうじて成立しているのです。
 けれども、「じぶんでないもの、他なるもの」は、もともとじぶんのなかにあったものですから、そのような「純化」は不可能です。この本の最初のほうで、鷲田さんは、「きたないという感覚」が自分の身体の「境界」に関係しているという話をしています。排泄物や鼻水、唾など、からだのなかにそれらがあるときはだれもそれをきたないと思わないけれども、それが、「じぶんの内部と外部、〈わたし〉と〈わたしでないもの〉との境界をあいまいにするもの、境目を不分明にするもの」[鷲田 2005:27]となると、「きたない」と思うのだと。つまり、そのような自と他の境界をあいまいにするような場所や中間の状態にあるとき、ひとはそれらをきたないもの、けがれたものとして意味づけるのだと述べていました。これは、イギリスの人類学者メアリー・ダグラス*3の説を、鷲田さんが紹介したものです。ダグラスは、それをアフリカ社会での事例などを用いながら、近代西欧社会にかぎらない、人類文化に普遍的なこととして述べています。
 では、近代の思考のシステムに特徴的な「清潔症候群」と、このような普遍的な「きたないという感覚」とは、どこが違うのでしょうか。そのことについて、ダグラスも鷲田さんも考察していませんが、実は、その違いこそ、レヴィ=ストロースのいう「概念」と「記号」の違いによるのです。
 日常的な思考や近代とは違う思考(レヴィ=ストロースのいう「野生の思考」)では、〈わたし〉と〈わたしでないもの〉との境界はそもそも、つねに侵犯されるもの、あいまいなものとされています。つまり、それを明確に分割することなどできないということが前提とされ、しかもそのような混淆を許容するだけでなく、それを利用して境界を引き直したり、再確認したりするために、「きたない」という記号が積極的に使われているのです。つまり、そこには明確な分割や分離による「純化」はみられません。そのような純化によって「概念」における同一性がつくられているのですが、そのような自他の切り離しは、近代に特有の症候なのです。しかし、そのような同一性は、取り換え可能、代替可能なものとされています。それが、近代における同一性の不安であり、それがまた、「清潔症候群」を呼びだしてしまうのです。
 いっぽう、ブリコラージュに用いられるモノとしての「記号」は、「その材料の独自の歴史」や来歴をそのまま保っています。それが重要なポイントです。エンジニアの用いる「概念」が、代替可能なモノとなるために、そのような独自の歴史や「人間性のある厚味」を消去しているのに対して、ブリコルールの用いるモノは、いわばそれぞれの「物語り」をもっており、それによって代替不可能な単独性を有しているのです。たとえ、そのモノがもともと量産された「商品」であったとしても、特定の人が特定の場所で使っていたという来歴=物語りによって、独自の色合いや感性的特質や味わいといった「人間性のある厚味」が、そのモノに生まれてきます。そのような来歴、物語りによる唯一無二性=単独性を、レヴィ=ストロースは「人間性がある厚味」と言い表しているのです。このような「モノの単独性」によって、制度的な同一性を崩していくものとしての「記号」、これがレヴィ=ストロースの記号についての深い考察でした。
 鷲田さんが「制服」を例にして言っていた、〈はずす〉こと、〈ずらす〉こと、〈くずす〉ことによる抵抗も、このような同一性から逃れ、同一性を崩すという「記号」の特性を活かしてできることでした。ブリコラージュにおけるブリコルールの「記号」の用い方は、モノや人の単独性を消さずに使うというものでした。それは、「ドジな教師と看護師」の話にも通じています。それらはともに、モノや人の「単独性」を呼びだしてくれるのです。この「単独性」を呼びだすことこそ、システムへの「抵抗」の基盤となります。というのも、システムは「同一性」を利用しますが、「単独性」は扱えないからです。


【参考文献】
レヴィ=ストロース、クロード
 1976 『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房
鷲田清一
 2005 『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』ちくま文庫

*1:クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)
1908~2009年。社会人類学者、民族学者。ブラジルのインディオの人類学的実態調査を契機として文化人類学に取り組む。構造主義の祖とされる。

*2:坂口恭平(さかぐち・きょうへい)
1978年生まれ。作家、建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒。在学中から路上生活者の家に興味を持ち、「建築物」の視点から調査・研究を始める。2004年に『0円ハウス』(リトルモア)を出版。

*3:メアリー・ダグラス(Mary Douglas)
1921~2007年。文化人類学者。専門は、象徴人類学、比較宗教学。『汚穢と禁忌』における「穢れ」論によって知られる。

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