第29回:人類学を活かして生きる

2.オリエンタリズムにみる自己-他者の境界

2-1.境界を生きる

 この連載の最初に人類学的視点として挙げた、レヴィ=ストロース*1「真正性の水準」に戻ってきました。「真正性の水準」という2つの社会の様態の区別は、他の人びととの対面的なコミュニケーションによる小規模な「真正な社会」と、近代社会を典型とする、より後になって出現した、文字や法や貨幣といったメディアに媒介された間接的なコミュニケーションによる大規模な「非真正な社会」の区別でした。レヴィ=ストロースは、「まがいもの(非真正なもの)」だからなくすべきと言っているわけではもちろんなく、その2つの社会でのコミュニケーションの仕方や経験のあり方が異なっているから、それを混同してはいけないといったのでした。そして、重要なことに、「真正な社会」は、近代社会や都市で失われたわけではなく、大都市でも人類学者がフィールドワークをできるのは、非真正な社会のなかにも真正な面があるからだと言っていました。つまり、「システムに植民地化された生活世界」にあっても、「一人ひとりの人柄や行動がけっして、階級や職業や世代といった比較可能で代替可能な属性や属性の束に還元されない」という真正な面、真正な社会が海に浮かぶ群島のように点々と続いているということです。
 この連載で読んできたテキストにも描かれていたように、すべてを数字や利益に還元して、人を代替可能にしてしまうシステムの中で生きている人びとも、「生活」の場ではしばしば、贈与や分配の場をつくり出し、そこでは単独性どうしのつながりを生みだしていました。それらの日常的な実践が、生活世界を植民地化しているシステムに対する抵抗となり、そのような抵抗によって、真正な社会を守っているのです。システムが生活の場のすみずみまで植民地化しつくしているわけではないこと、人類学的な普遍性において、真正な面は維持できること、それを示すことができる点が、文化人類学の利点です。

 けれども、レヴィ=ストロースが言っていたように、ほんとうに人類学が他の社会科学にたいして貢献するためには、人類学の自己反省も必要でした。「住み込み」のフィールドワークを方法として採用してからずっと一貫して、人類学が「生活からの視点」を維持してきたわけではなかったからです。文化人類学も、他の学問と同様に、客観的なリアリティを解明する科学になろうとして、フィールドワークの最中には単独性の関係によって研究しているのに、本国に帰るとその単独性をきれいに捨て去って、対象社会を上から俯瞰するような視点から、その社会の生活世界のさまざまな出来事や要素を社会的機能といったどこでも通用するような一般的なものに還元して、「何々族の親族体系は・・・」とか「日本人の国民性は・・・」といった語り方をしてきました。
 いいかえれば、フィールドでは現地の住民との間で単独性どうしのつながりの中で生活していたのに、帰国して民族誌を書くときになると、人類学者はあたかも全体的な視野から俯瞰しているかのように描き、しかも、現地の住民にはけっしてそのような全体的な視野はもてないのだから、その文化の全体像を彼らに代わって表象するのだというように自分たちの表象を正当化してきました。そのような民族誌からは、〈顔〉(単独性)をもった住民たちは姿を消し、その代わりに〈顔〉のない「○○人」(「○○族」)という「民族」の全体像が現れます。つまり、社会科学たる人類学を確立するために、科学的客観性を重視し、そのために、人類学的なフィールドワークのもつ大きな学問的可能性の源である「単独性どうしのつながりをもつ人々との身体的・対話的相互性」を、その「科学的民族誌」から排除してきたのです。

2-2.西洋近代の自己像の作られ方

 それに対する反省は、1980年代になってようやく始まりました。そして、その反省のなかで、人類学は、大事な人類学的視点を再認識していきました。それは、日常生活においては、自然と文化、西洋と東洋、自己と他者といった、純化された「大きな分割」などない、すべては地続きであり、越境できない壁などないという視点です。
 文化人類学における自己批判に大きな影響を与えたのが、1978年に出版された、エドワード・サイード*2『オリエンタリズム』という本でした。サイードは、そのなかで、近代ヨーロッパの「オリエンタリズム」(東洋研究・東洋趣味)による、西洋と東洋の対立が、西欧近代によって創り出された「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」[サイード 1993:21]であったといいます。
 近代ヨーロッパのオリエンタリズムでは、オリエントは、「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント的専制、オリエント的非合理性」といった紋切り型の言説の流通によってオリエント化されます。オリエント化されたオリエントは、同時代の東洋の多様な現実にかかわらず、「後進性、不変性、女性性、受動性、非論理性」という、永遠に固定されたアイデンティティが与えられたのでした。それは、近代ヨーロッパの自己(近代西洋の白人ブルジョワ男性の自己)の理想的イメージとちょうど正反対の像でした。

 このような他者像の構築と、自と他の分割・分離のやり方については、サイード以前に、レヴィ=ストロースが指摘しています。レヴィ=ストロースは、『今日のトーテミスム』の冒頭で、19世紀末の人類学におけるトーテミズム研究と同時代のヒステリー研究の類似性を指摘し、ヒステリー幻想とトーテミズム幻想が19世紀末という同時期におなじ文化的環境において誕生したことは偶然ではなく、そこには研究の対象となる人びと(精神病患者や「未開人」)よりも、研究する側の精神――「あたかも学問的客観性というかさをかぶって、学者たちが、意識的か無意識的か、これらの人々を実際以上に自分たちと異なっているとしているかのように」見せたがる精神――が強く反映されていたと述べ、ヒステリー幻想やトーテミズム幻想とは、正常な白人男性が、自分たちのなかにある望ましくない部分を異常者や未開人という他者に投影することによって、そのような部分が自分たちのなかにあることを否認し、自分たちの道徳的世界を正常で確固たるものにするためのものだと述べています。

 したがって、白人の正常な成人男性の思考様式を無疵のままに保持し、同時にこれを根拠づけるためには、それらもろもろの慣習や信仰を自分自身から切り離し――実際にはそれらの慣習や信仰はまったく異質なもの同士であり、他の慣習や信仰から分離することも困難なのだが――、われわれの文化を含めたあらゆる文化のなかに存在し機能していることを認めねばならないとしたら有害となるような諸観念を、この慣習や信仰のまわりに無害な塊として結晶させることほど都合のよいことはなかった。トーテミスムという考えは、なによりも、キリスト教的思考が本質的なものと考える人間と自然とのあいだの非連続性という要求とは両立しない精神的態度を、いわば悪魔祓いをするように、われわれの宇宙の外に投影したものであった。[レヴィ=ストロース 2000:8、訳文は一部変更]

 レヴィ=ストロースがここで述べていることは、西欧近代における「純化」された自と他の二元論の分割による、自律した主体のつくられ方です。このような二元論的な分離によって、周囲の環境や関係性から身を引き離しているゆえに、特殊な文化や周囲との関係に縛られない普遍的で客観的な知を得ることができる自律した主体という西洋近代の自己像を作り上げたわけです。そして、そのような主体こそが、周囲の環境や関係に左右されない超越的な立場を確保し、周りの環境や他者の全体をその超越的視点から客観的に把握するがゆえに、その他者を支配できるというオリエンタリズムが生まれました。

2-3.システムへの日常的抵抗

 レヴィ=ストロースとサイードのいう自と他の二元論的な分割・分離と「純化」は、近代的思考で用いられる「概念」の作られ方にもなっています。つまり、同じメカニズムによって、概念の同一性も主体の同一性もつくられているのです。そして、その同一性を基にして、専門家支配のシステムもできあがっています。これまで見てきたように、それらのシステムは、ひとやモノの単独性およびその単独性どうしの〈コモン〉を消去することによって成立しているのです。

 だとすれば、これらのオリエンタリズム的なシステムに抵抗するためには、単独性と単独性どうしの〈コモン〉を維持すればいいのです。もちろん、「非真正な社会」に包摂され、システムが生活のなかにまで浸透している現代社会では、単独性どうしの〈コモン〉を維持することは簡単ではありません。人類学的視点は、周囲との単独性どうしのつながりを保持するための、非真正な社会のシステムとの付き合いかたを教えてくれます。それが、システムを「はぐらかし」、なんとか「やり過ごし」、あるいは鷲田清一さん*3の言いかたを借りれば、「はずし」「ずらし」「くずし」ていきながら、真正な社会での単独性どうしの〈コモン〉をつくり出し維持していくというやり方です。20世紀の社会主義革命やファシズムの経験は、上からの設計にもとづいてシステムを一気に「改革」しようという試みが、結局は別の強固なシステムをつくり上げ、そのシステムが生活を植民地化することを促進するだけだということを如実に示しました。
 もちろん、非真正な社会のシステムをよりましなものにするための闘いも必要です。しかし、それは、システムとは別の、真正な社会における〈コモン〉をつくり出し維持することを目指す闘いでなければ、システムによる生活の植民地化をふせぐことはできません。つまり、生活世界における「自治社会」や〈コモン〉をつくり維持するという日常的実践なしにはシステムを改革してもうまくいかないのです。そして、生活世界での実践には、一見、「じゃれ合って」いるようにみえる遊びや「共楽」(コンヴィヴィアリティ)が不可欠です。
 何一つ変わらないようにみえるシステムに包摂されている「非真正な社会」のなかで、人類学のできることは、じぶんの「生活」のなかから、そしてフィールドでの「生活」から、単独性どうしのつながりとしての〈コモン〉とその快楽について、じぶんの経験したことや直観したことを拾い集めて、生活における単独性どうしのつながりを可能にする「真正な社会」の重要性を明らかにすることです。それは、「非真正な社会」のなかにもそれとは異なる「真正な社会」が保持されていることを示すことでもあります。
 さて、この連載も今回が最終回となります。人類学的視点を社会のために活かすには、ということを隠された目標としてきました。それは直接的に企業などに役に立つような社会的貢献ではありませんが、それよりは広く深い社会的貢献です。それを一言で表せば、もう少しましな社会にするために、そしてもう少し楽しい生きかたをするために、一人ひとりの単独性を回復させ、単独性のつながりとしての〈コモン〉を、地元で、足元で、自分たちの手でつくり出そうと呼びかけることなのです。そのような呼びかけの一つの例としてこの連載を書いてきました。単独性のつながりとしての〈コモン〉をつくり出すことは、私たちを包摂しているシステムに全面的に依存したり組み込まれたりしない生きかたを取り戻すことになりそれが「共楽」(コンヴィヴィアリティ)としての喜びにもシステムへの抵抗にもなるはずだという呼びかけ=メッセージが少しでも伝わっていたらうれしいと思います。ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました。


【参考文献】
サイード、エドワード・E
 1993 『オリエンタリズム(上)』今沢紀子訳、平凡社ライブラリー
レヴィ=ストロース、クロード
 2000 『今日のトーテミスム』仲澤紀雄訳、みすず書房(みすずライブラリー)
鷲田清一
 2005 『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』(ちくま文庫)

*1:クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)
1908~2009年。社会人類学者、民族学者。ブラジルのインディオの人類学的実態調査を契機として文化人類学に取り組む。構造主義の祖とされる。

*2:エドワード・W・サイード(Edward William Said)
1935~2003年。批評家・文学研究者。主著の『オリエンタリズム』では、西欧中心の中東・アジア観を指摘・批判した。

*3:鷲田清一(わしだ・きよかず)
1949年生まれ。哲学者、元大阪大学総長。専攻は臨床哲学・倫理学。現象学・身体論を専門としており、ファッションを研究していることでも有名。

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