第21回:「地域」で繋がって勝手に生きよう!

3.「地域」で繋がって生きること

3-1.勝手に生きるために、繋がって生きる

 「地域」で繋がって生きることは、「なるべく勝手に生きる」ための基盤となります。松本さんは、まず、商店街で繋がることを提唱します。

 さて、我々貧乏人が世の中を生き抜くには、地域とのつながりや人脈が大事なことはところどころで述べてきた。我々貧乏人はどうにもこうにも金がないので、一人でウロウロしている場合、死なないように金持ちや金をくれる人の言うことを聞かなくてはならない。でも、これはどうも癪に障る。
 本当に働けない人は生活保護など行政に頼るという手段もあるのだが、その場合、国が傾いた瞬間に餓死しかねないのであまり信用できない。首相などが「もう払えねえ! どう叩いても出ねえよ!! 煮るなり焼くなり好きにしろい!」とか言って机の上にあぐらをかいて開き直りだしたら大変だ。それに、この本では「なるべく勝手に生きていく」ということをテーマにしたいので、ここはひとつ「貧乏人が束になったら何とか生きていけたりするのではないか?」という作戦を練っていきたい。
 そうしたときに商店街をはじめとする地域が大事になってくるのだ。街で貧乏人が生き抜く作戦を練ってしまおう![松本 2011:97]

 「勝手に生きる」という言い方は、最初のほうでは「好き勝手に生きる」という意味で使われていますが、ここでは、国家というシステムとはなるべく無縁に生きるという意味で使われています。「自前」でなんとか生きる、国家や経済のシステムに依存しないで生き抜くために、「地域」のコモンを活かすというわけです。
 ところで、ここで「共=コモン」と呼んでいる〈つながり〉は、政治学や社会学などで「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」と呼ばれているものと似ています。しかし、ここで「社会関係資本」という語を使わずに、「コモン」という語を使うのは、社会関係資本が、自分の利益のために主体的・選択的に行なうネットワークづくりのように聞こえるからです。それに対して「コモン」という語には、主体的・選択的な操作というだけでなく、どこか不可避的に「巻き込まれていく」ものという意味合いや、そのつながりが単独性どうしの関係だという意味合いが含まれています。さらに、そのつながりが生きている人間だけでなく、死者やまだ生まれてこない者、さらに人間以外の存在にまで広げて使えることもあります。そして、「コモン」には、数量化し比較可能なものとなる利益のためというより、「楽しんで生きる」ためにつながるものであり、「勝手に生きていく」という意味での「自治」という面もあります。
 つまり、「勝手に生きていく」ために「地域で繋がって生きる」というやり方を採るのですが、それが同時に、そちらのほうが多様な人びととの交流があって楽しいという思想がそこにあります。その思想は、後で出てくる、多様性を生む単独性どうしの交流やつながりのために「公共施設を勝手に作る」=「自前で作る」という実践にもつながっていきます。

3-2.商店街とつながる

 話が先に進みすぎたので少し戻して、「勝手に生きる」ために、地域――商店街と町内会――を味方にするという話から読んでいきましょう。

 商店街は、基本的には個人商店の集まりなので、いろんな業種の店が集まっている。ってことは、困った時にも何か自分でできる人がやたらたくさんいるということだ。飲食店があれば飲み食いはOKだし、肉屋や八百屋などがあれば食材は手に入るし、レコード店があれば音楽が聞けるし、電気屋があれば電気の工事や修理もできるし、工務店があれば家も直せる。こういう連中と仲良くしていて損はないのだ。我々の強い味方だ。[松本 2011:98-99]

 とりあえず、家の近くに商店街があったら接触がないのはもったいなさすぎる。とりあえずはどっかの店と仲良くなってみよう。個人商店は量販店と違い、お客さんをすぐに覚えてくれるので、バーやカフェでも魚屋さんでも豆腐屋さんでも、何度か顔を出せばすぐに知り合いになる。(中略)
 高円寺の素人の乱も同様で、店のある北中通り商店街にはやたらと知り合いも多く、なんだか大変なことになっている。おかげで、あまった食材をもらうこともあるし、夜中に近所で飲んだくれている電気屋を発見し、修理を手伝ってもらったりもできる。深夜に酔っ払って千鳥足で歩いているそば屋のオヤジがやたら上機嫌で、こっちにちょっとかわいい女の子なんかいたら、夜中だってのに「よし! お前らにメシを食わせてやろう」とか言い出し、味噌煮込みうどんを作ってくれたりもする(実話・しかも頻繁)。これはありがたい!
 うーん、これはお台場のようなイカサマ近未来都市ではムリだろうな・・・・・・。すぐに採算とかボッタクリを考えてしまう薄情な大型店なんかより、融通も利くしいい。[松本 2011:99-100]

  商店街にあるさまざまな店の商品や技術やサービスが、いざというときには「コモンズ(共有財)」になるという発想がみられます。それが可能なのも、顔見知りの「常連」になっているからで、「コモン=〈共〉」のつながりがあれば、商品であるはずのものが贈与されるモノとなる可能性があるということです。もちろん、松本さんもこの「自営業軍団」による贈与経済の一員になっていて、贈与する側にもまわります。

 まあともかく、自営業軍団というのは最強なので、味方につけない手はない。自分の例で言えばリサイクルショップなんかは相当便利なので一味になった方がいい。例えば、自分が酔っぱらって上機嫌に商店街を歩いている時に「あ、松本さん! いま○○が壊れちゃってね~、困ってるんです」とか言われると、「よし! 今から直しに行こう!」とか言って修理に行ったり、「倉庫にいいのがあるよ。あげるあげる!」などと大放出したりすることもあるぐらいだ。これは心強いでしょ。それに本当に困った時は、店の近所に住んでいるので、叩き起こせば何とかなることもある。
 いくら三越やドン・キホーテの常連になってもいざという時に役に立たないが、自営業軍団と仲良くしておけば絶対にいいことはある。これは心がけておいてくれ。[松本 2011:101-102]

3-3.町内会とつながる

 商店街のつぎは町内会です。町内会は、日中戦争が始まった頃に戦時体制のためのものとして作られはじめ、1940年には大政翼賛会の下部組織として整備されたものです。戦後は、地域の自治組織となりましたが、行政の下請けを行なうなど、実際には「自治」のためのものにはなっていないのが現状でしょう。けれども、松本さんはそれを本来の地域の「自治」のためのものに改造・修理して使おうと提案しているようにみえます。いうなれば、ブリコラージュの材料として使おうということです。なんでも行政任せにするのではなく、「身近な自分たちでできることぐらいは自分らでやった方がいい」という自治の思想を既成の町内会に盛り込もうというのです。このように、行政の下請けという目的のために作られたものを、「自治」という別の目的に用いることを、文化人類学や歴史学では「流用」と呼んでいます。
 非真正な社会では、制度や法律やメディアは民衆や普通の人びとが自分たちで作りだしたものというより、どこかよそで作られたものとしか思えないようになっています。そこでなんとか自分たちの生の目的のためにできることのひとつが、自分たちを支配したり搾取したりするために作られたモノを自分たちの都合に合わせて換骨奪胎して利用するという「流用」の戦術だというわけです。

 そもそも、本来的な意味を考えてみてくれ。戦前・戦中は、町内会なんてのは政府が戦争をやるための末端組織に過ぎなかったのだが、戦後はまがりなりにも「自治会」という意味合いの組織に変わり、地域の自治を行うためのグループに生まれ変わった。・・・・・・なのだが、実態はなかなかそううまくもいかず、たいして変わっていなかったりする面もある。でも本来の意味で言うと、自分らの街を自分らで運営するという、ごく小さな自治政府のような意味を持ってたりもする。いくら国や行政があるからといって、何でもかんでもやってもらうんではなく、身近な自分たちでできることぐらいは自分らでやった方がいいということだ。
 まあ、これはいいね。確かに、天変地異がいつ起こるかわからないし、この時代だから日本経済がいつぶっ潰れないとも限らない。こんな大変になった時、身の回りのことを全部お上に任せていたら、一瞬でニッチもサッチも行かなくなってしまう。また、今はまだ平和なほうだからいいが、世が乱れてきて、アホな右翼かぶれの奴なんかが「2・26事件」の真似事みたいなのを始めて、近所を軍事占拠なんかされた日にはたまったもんじゃない・・・・・・。万が一、そういう時にも「ばかやろう、そんなマヌケな騒ぎには付き合ってらんねえよ!」と、ちゃんといえるためにも、地域の自治はできなきゃいけない。そう、自治は大事なのだ! 地域コミュニティの自治という意味での町内会は意外に重要だぞ![松本 2011:103-104]

 もちろん、この文章は東日本大震災の前に書かれたものですが、天変地異や国家が破綻したときに、「身の回りのことを全部お上に任せていたら、一瞬でニッチもサッチも行かなくなってしまう」と言っています。行政のルールに頼っていては、私たちは非常に弱い存在のままなのです。2011年3月11日に発生した東日本大震災のときにも、行政をはじめ水道や電気といったインフラのシステムも停止しました。そういうとき、自分には何ができるかを考えてみてください。東日本大震災では、お年寄りが活躍しました。古い井戸を使って水を汲み、長いあいだ使っていなかったかまどを直して薪でご飯を炊いたのです。若者たちは、そんなことをしたことがなかったので感心してみているだけでした。行政やシステムに依存することは人を無力化してしまうのです。無力化しないためにも「自治」が大事だというわけです。
 次回、町内会と新しい自治のあり方、つくり方を見ていきます。

 

【参考文献】
松本哉
 2011 『貧乏人の逆襲!(増補版)』ちくま文庫

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