第9回:「灰色の男たち」への抵抗

3.〈聞く力〉が居場所をつくる

 自分のまわりにも(つまり歓待や贈与や分配に溢れていた「貧しい人たち」の社会にも)「灰色の男たちの世界」が侵入してきていることに気がついたモモは、それに対して抵抗を始めます。何をしたのかといえば、友だち一人ひとりを訪ねていって、「話を聞く」ということ、それだけです。つまり、モモは自分の持っているたったひとつのやり方、〈聞く力〉によって抵抗を試みています。たとえば、モモがニノの店を訪れた場面を見ていきましょう。

 「そうともさ。」リリアーナがさけんで、おなべをガチャンといわせました。「このひとにゃあ、まるっきりべつの心配ごとがあるのさ! たとえばね、どうやってむかしからのだいじなお客さんを追いだすか、これがいまの心配ごとなのさ! おぼえているかい、モモ、いぜんにいつもすみのテーブルにすわっていたじいさんたちのことを? このひとときたら、あのじいさんたちをおんだしちまったんだ! おっぱらっちまったんだ!」
 「そんなことするもんか!」とニノが弁解しました。「ほかの酒場をさがしてくれと、ていねいにたのんだんだぞ。おれは主人だ、そうする権利がある。」
 「権利、権利だなんて!」リリアーナはいきりたってくってかかりました。「あんなことは人間のすることじゃない。人の道にはずれてる、卑劣だよ! あのじいさんたちがほかに行くところがないことぐらい、おまえさんにもわかっているだろ。うちにきたって、だれのめいわくにもならなかったじゃないか!」
 「もちろん、だれのめいわくにもならなかったさ! あんなむさくるしいじじいどもがいるおかげで、まともな、金ばらいのいいお客がうちによりつかなかったからよ。あんなやつらが、見て気持ちのいいもんだと思っているのか? それにさ、毎晩、安い赤ぶどう酒をひとり一ぱいきりだなんて、ちっとももうかりゃしない! そんなことやってた日にゃあ、おれたち、こんりんざい成功できねえぞ!」[エンデ 2005:124-125]

 

 長いあいだ、ニノはなにも言いませんでした。たばこに火をつけ、それを指にはさんでひねくりまわしています。
 モモはニノにじっと目をむけました。
 「ほんとにいいやつらだったな。」しばらくしてからニノは口をひらきました。「おれだって、あのじいさんたちがすきだったんだ。なあ、モモ、おれだっていやだったんだ、あんなことを・・・・・・でもどうすりゃいいんだ? 時代が変わったんだ。」
 ちょっとやすんでから、ニノはまたつづけました。
 「リリアーナの言うとおりかもしれんな。じいさんたちがこなくなってからは、おれにも店がなんとなくじぶんの店じゃないみたいに思えてな。ひえびえとしているんだ。わかるかい? じぶんでももういやになったよ。まったく、どうしたらいいかわからないんだ。だがな、いまじゃどこの店だってそうやってる。どうしておれだけがちがうやり方をしなくちゃなんねえんだ? それとも、おまえもそうしたほうがいいと思うか?」
 モモはかすかにうなずきました。
 ニノはそれを見て、じぶんもうなずきました。そしてふたりはにっこりしました。[エンデ 2005:127-128]

 

 そしてほんとうにニノとふとっちょのおかみさんはやってきました。赤んぼうもつれて、それにかごいっぱいのおいしい食べものもおみやげにもってきました。
 「ねえモモ、考えてもごらんよ。」リリアーナは顔をかがやかせて言いました。「ニノはね、エットーレおじさんとほかの年よりのところをひとりずつまわって、まえのことをあやまって、またきてくれとたのんで歩いたんだよ。」
 「そうなんだ。」ニノは頭をかきかき、笑ってつけくわえました。「みんなまたきてくれるようになったよ――店のはんじょうはのぞめないだろうがね。でも、おれの気にいった店にまたなったよ。」[エンデ 2005:128]

3-1.ニノの店の変化

 ニノが「自分の店」と感じられる場所は、人との唯一無比の関係(単独性どうしの関係)によってつくられていました。そのとき、店は「市場」というシステムの一部(代替可能で比較可能なもの)ではなく、お客も数によって表される代替可能な存在ではありませんでした。ところが、灰色の男たちによって、その店は、市場というシステムの一部となり、そこでの行動も、あらゆる人を交換可能で比較可能なものとして扱うように変わっていきました。すると、ニノにとって「自分の店」ではなくなったのです。客だけではなく、ニノにとってもその店は「心地の良い自分の居場所」ではなくなったということです。「自分の居場所」とは、自分が単独性、すなわち代替不可能な存在として扱われる場所です。そのためには、そこにいる他者もまた代替不可能な存在として扱わなければなりません。それが単独性どうしの関係であり、そのような関係によって、人は「かけがえのない私」になり、そこが自分の居場所と感じられるようになるわけです。モモの〈聞く力〉によって、ニノはそれに気がついたのです。冒頭のところで述べたように、「聞く」という行為は、相手を代替不可能な唯一無比の存在として迎える行為でした。ここでもその力が発揮されたわけです。
 このように、モモによる「友だちの訪問」と「話を聞く」という行為は、それぞれの生活空間を「友だちが訪れる場所」「居心地のいい自分の居場所」へと変える、すなわち、そこを再び「単独性どうしの関係」の場へと変えていきます。

 こうしてモモは、古い友だちをつぎつぎにたずね歩きました。まえにモモのために木箱の板でいすとテーブルをつくってくれた、あの指物師のところにも行きました。ベッドをもってきてくれた女の人たちのところへも行きました。ようするに、いぜんにモモに話を聞いてもらったことのある人、それで分別がついたり、決心ができたり、気もちがあかるくなったりした人をぜんぶ、たずねたのです。みんな、またモモのところにくると約束しました。その約束を守らなかった人、あるいは守れなかった人はいました。そのひまがなかったのです。けれども、ほんとうにやってきた古い友だちもたくさんいました。そして、いぜんとほとんど変わらないつきあいが復活しました。
 そのせいで、モモはじぶんではそうと知らずに、灰色の男たちのじゃまをすることになったのです。それは彼らにとっては、ゆるしがたいおこないでした。[エンデ 2005:129-130]

 そこで、灰色の男たちは、モモに対する攻撃を開始します。モモをシステムへと組み込もうとします。つまり、ビビ・ガールというおもちゃの人形(=商品)を与えようとします。その商品は、あらゆる商品がそうであるように、つぎからつぎへと新しい商品に対する欲望を生みだし駆り立てるものです(人の欲望が「商品」を生みだすのではなく、「商品」が人の欲望を生みだすのです)。商品が交換可能で比較可能であるように、その欲望も代替可能なものです。けれども、システムに生きている現代の人々は、その欲望こそ「自分」の存在証明=アイデンティティだと感じさせられています。実際には、そのことによって「自分」を代替可能で比較可能な存在へとしているのにもかかわらず、駆り立てられた欲望に自分らしさを求めて、自らを「誰でもいい人」にしているわけです。
 しかし、灰色の男の作戦は、モモがその商品に興味がないことと、モモの〈聞く力〉が灰色の男を灰色の男ではいられなくするという結末によって失敗します。モモは、「あんたのことがすきな人は、ひとりもいないの?」と聞いただけなのですが、「すきな人」こそ、単独性どうしの関係ですから、それに思いをめぐらせただけで、「灰色の男たちの世界」は停止してしまうのです。
 しかし、モモの〈聞く力〉が「モモたちの世界」を守ったとしても、それはほんの小さな世界、小さな社会です。システムは、その小さな社会を包みこんでしまいます。その被害者は子どもたちでした。おとなたちが、子どもたちを世話する時間を惜しむようになったのです。単独性どうしの関係、かけがえのない関係は、「時間を無駄に贈与する」ことによってつくられますが、誰も時間を贈与してくれなくなったのです(ここでも、贈与経済から市場経済への変化が見られます)。そこで、お調子者のジジは、子どもたちを集めてアジテーションを行ない、集会とデモを計画します。でも、これは失敗します。ここには、従来型の社会運動に対するエンデの皮肉まじりの批判があるのかもしれません。システム、より特定すれば資本主義システムに対して、集会とデモ、アジ演説で人々の目を覚まさせて、システムを変革しようとする社会運動は、別のシステムを作りだすだけで、システムが単独性どうしの関係を包摂している状況には変わりがないというわけです。
 モモがマイスター・ホラに呼ばれて、その小さな社会を離れてしまうと、その小さな社会は完全にシステムに包摂されてしまいます。ジジもそうですし、ニノの店も「ファストフード・レストラン ニノ」になってしまいます。

 いまのジジは、聴衆の道化になりました。あやつり人形なのです。そしてそれを自覚しています。じぶんのやっていることが、いやでたまらなくなりはじめました。そうなると、ジジの話す物語はますます鉄皮面なうそになるか、ますます感傷的になるかでした。ところがそれによってジジの成功はつまずくどころではありません。反対に、人びとはこれこそ新しいスタイルの物語だとほめそやし、そのまねをするものが続出するありさまでした。このスタイルは大流行となりました。でもジジはひとつもうれしくありません。いまでは、だれのおかげでじぶんがこんな成功をおさめたのか、知っているからです。[エンデ 2005:261]

 ジジはこのように、自分自身を代替可能で比較可能な商品としてしまいました。ニノのファストフード店での場面はつぎのようなものです。

 モモがまたもあらわれたのを見て、ニノのひたいに脂あせがうかびました。
 「いまじゃなにもかも変わってしまったんだよ。でもいまは説明してられないんだ。見ればわかるだろ、ここがどんなふうか!」
 「でもどうして子どもたちはこなくなったの?」モモは強情に質問をつづけました。
 「めんどうを見てくれる人のない子どもはみんな、〈子どもの家〉にあつめられてるんだ。子どもだけですてきなことをするのは禁止されたのさ。そのわけは・・・・・・まあ、ようするに、子どもたちはいまじゃ保護されてるんだ。」
 「いそいでくれよ、そこのおしゃべりやろう!」またも列から怒声がとびました。
 「はやいとこ食事にありつきたいんだがね。」[エンデ 2005:292]

 

 モモはまたなにも言わずに、ニノを見つめました。うしろの人波がモモを押しだしました。モモは機械的に動いてテーブルのところに行き、おなじように機械的に三回目の食事を口につめこみました。でもまるでボール紙か、かんなくずでも食べているようで、のみくだすのは並たいていではありません。すんだときには、胸がむかむかしてきました。
 モモはカシオペイアをかかえると、あとをふりかえることもせずに、だまって外にでました。
 「おい、モモ!」出てゆくモモのすがたをかろうじて目にとめたニノが、声をかけてきました。「ちょっと待てよ! おまえがいままでどこにいたかは、ぜんぜん話してくれなかったじゃないか!」
 でもたちまちつぎの番の人がレジに押しよせてきたので、ニノはまたキーをたたき、お金をうけとり、おつりを払うのにいそがしくなりました。その顔からはもうとっくに、あの微笑は消えてしまっていました。――
 「たくさん食べたわ。」モモは円形劇場あとにもどってからカシオペイアに言いました。「食べるものはたくさんもらった、おおすぎるほどね。でも、満足した気もちにはちっともなれない。」
 そして、しばらくしてまたぽつんとつけたしました。
 「あのニノじゃ、花や音楽のことを話してあげられないわ。」[エンデ 2005:293-294]

3-2.「ファストフード レストラン ニノ」の希望

 このように「モモの世界」であった小さな社会は消滅したかのようにみえます。モモたちの完全な敗北です。そして、それは私たちの敗北でもあります。「モモの世界」、モモたちのつくる小さな社会の消滅によって、社会全体が「灰色の男たちの世界」になってしまったわけですが、それは私たちの社会そのものであるわけですから。
 物語としては、最後にモモの活躍によって、唯一無比の「時間の花」、すなわち一人ひとりの単独性を表す時間の花が取り戻され、「灰色の男たち」は消えてしまうのですが、私たちの世界には、そのような「時間の花」はありませんし(それはモモだから見ることができたのであって、すべての人にみえるわけではないと説明されています)、「灰色の男たち」もまた、そもそもマイスター・ホラの言うように最初から実在しておらず、人びとの欲望が生みだしたものでした。私たちの世界には、灰色の男たちもいないかわりに時間の花もなく、私たちが自分自身を灰色の男たちへと変えるようなシステムしかないようにみえます。
 では、この物語に現実の世界での「希望」は描かれていないのでしょうか。そうではないということを、小原れいさんの卒業論文に教えてもらいました。ニノのファストフード店での場面をもう一度、振りかえってみましょう。ニノは、モモと再会して喜びますが、話をする時間はありません。ニノは、数量化された客、交換可能で比較可能な、貨幣で表される客の応対に汗をかきながら、「でもいまは説明してられないんだ。見ればわかるだろ、ここがどんなふうか!」とモモに言います。モモもまた「あのニノじゃ、花や音楽のことを話してあげられないわ」と思い、何も話すことなく、人の波に押されながら、味気ないファストフードを食べて店を後にします。でも、よく読むと、ニノは、客に怒鳴られながらも、モモの相手を懸命にしています。「子どもたち」がどうしているかも伝えています。もちろん、システムに組み込まれ、そのシステムにしたがった行為しかできないのですが、その状況にあっても、ニノにとってモモは友だちであり、友だちという単独性どうしの関係にある者としての対応をしているわけです。それは、有名人になったジジも同じです。
 この「ファストフード レストラン ニノ」の場面での「希望」について、小原れいさんは、卒業論文「『モモ』から考える「灰色」の時代の生き方―ミヒャエル・エンデのメッセージ」(2012年度成城大学文芸学部提出)のなかで、レヴィ=ストロースの「真正性[正真性]の水準」を援用しながら、次のように書いています。

 ここにこそ、灰色の男たちの世界になっても、まだモモの世界が対抗できる希望がある。たとえば、ファストフード店は、近代社会に特有の「まがいもの」らしさを帯びたものの典型である。しかし、それを全否定することが、それに対抗するための有効な途なのではない(第一、そんなことが私たちに出来るだろうか)。『モモ』の物語のなかでも、ファストフード店が、部分的には「正真性」を帯びたものとして描かれているように思われる。それが、モモの友だちのニノが灰色の男たちにそそのかされて始めた「ファストフード レストラン ニノ」[エンデ 2005:284]である。
 「ファストフード レストラン ニノ」を訪れたモモが目にしたのは、灰色の男たちの価値で、せかせかと働いているニノであったが、それでも店はモモにとっては「唯一無比」の店である。「あとをふりかえることもせずに」店をでていったのは、モモの知っているニノが以前とは違ってあまりにせかせかと働くようになってしまったことを残念に思ったのであり、ニノがモモにとって唯一無比の存在だからこそである。
 誰でも、自分の友人が働いているファストフード店は、全国に何店舗も同じラベルの店があったとしても、他のものとは違う特別のものと認識するはずである。[小原 2013:29-30]

 

 モモは、灰色の男たちのことばを一瞬受け入れそうになりながらも、「それじゃ、あんたのことがすきな人は、ひとりもいないの?」と唯一無比の関係を表す言葉をぶつけたり、ファストフード店と化してしまった場所へでも彼女にとって唯一無比のニノを訪ねていったりしている。モモの振る舞いは、レヴィ=ストロースのいうような「まがいもの」の社会にも「島のように点在する」、正真性の社会をつくりあげる行為である。『モモ』においてはそれらのことが、最後に唯一無比の尊重される社会を勝ち取る方法として読者に語られるのである。[小原 2013:31-32]

 つまり、システムに完全に包摂された世界にあっても、単独性どうしの関係とそれによってつくられる「真正な社会」は存在しているのです。その関係が維持されているかぎりは、モモは、いつかはジジやニノに「花や音楽のこと」を話せるでしょう。もっと言えば、「花や音楽」によって表されている時間の単独性は、真正な小さな社会で単独性どうしの関係がつくられつづけているかぎり、ニノやジジにとっても、すでにそこにあるのです。


【参考文献】

エンデ、ミヒャエル
 2005 『モモ』大島かおり訳、岩波少年文庫

小原れい
 2013 「『モモ』から考える「灰色」の時代の生き方―ミヒャエル・エンデのメッセージ」成城大学文芸学部
 2012年度提出卒業論文

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