3.科学ではとらえられない現実とは
3-1.「キツネにだまされなくなった」わけ
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』の第2章「一九六五年の革命」で、著者の内山さんは、人々が語る「キツネにだまされなくなった」理由として、
①高度経済成長によって「経済的価値があらゆるものに優先する価値になった」こと
②科学による説明がすべてであり、それが進歩的とされるようになったこと
③テレビなどによる情報、コミュニケーションのとり方の変化
という3つの説のほかに、
④進学率の向上(村の教育の衰退)による、多層的で非合理的なコミュニケーションの
喪失
⑤死生観の変化
⑥自然観の変化
⑦キツネ自体の変化
を挙げています。これらの多くに共通しているのは、貨幣や科学的法則やマスメディアなどの一般化された媒体による価値の一元化と、その浸透であると言えるかもしれません。いいかえれば、一般化されたメディアによる「非真正な社会」が、村の世界にまで浸透したことによってキツネにだまされなくなった、「キツネにだまされる」という物語によって共有されていた「村の世界」が壊されていったのだという説明になっています。
ここでは、本連載のキーワードでもある「アクチュアリティ」を導入するために、「キツネにだまされなくなった理由②」として挙げられている、科学の浸透について見ていきます。
本当は、科学とは科学的方法によってものごとを考察していく学問にすぎない。そこからは科学的方法によってとらえられた真理がみえてくる。それを私たちは科学的真理と呼んでいる。だがそのことは、科学とは別の方法をとおしてみえてくる真理もまた存在するということを示しているはずである。(中略)
ところが戦後の日本にはそんな議論は通用しない雰囲気があった。科学的に説明できないものはすべて誤りという風潮が広がっていったのである。それが非科学的な「神国日本」とか「大和魂」「日本人の器用さ」などを信じた末に訪れた惨めな敗戦を経験した、戦後の日本の人々の信条であった。
このような信条からの自分の世界のとらえ直しが、すみずみにまで及んでいったのが1960年代前半である。そしてキツネにだまされることが当たり前の話から迷信へと変わっていくのも、この時代のなかにおいてであった。(中略)この頃から、キツネの暮らす自然との間に科学的な認識を超越した関係を築いていた「伝統社会の人々」の間にも、科学的にとらえることが進歩的態度とみなす精神が広がっていったのも事実だった。
そのことが、科学ではとらえられない世界をつかむことのできない人間たちをつくっていったと多くの人々が語る。そこにこそ、1965年頃から人間がキツネにだまされなくなった大きな理由があるのだ、と。[内山 2007:41-43]
ここで言われているのは、「科学ではとらえられない世界をつかむことのできない人間たち」が、「科学とは別の方法をとおしてみえてくる真理もまた存在する」ということを忘れていくという過程です。つまり、災因論が迷信として批判されていく過程です。そして、科学とは別の方法をとおして見えてくる現実というものもまた存在する、そのような科学では捉えられない現実を「アクチュアリティ」と呼んでいます。この用法は、連載の第13回で紹介した精神科医の木村敏さん*1によるものです。
3-2.科学で扱える「リアリティ」、
科学では扱えない「アクチュアリティ」
ここでもう一度説明しておくと、木村さんは「そのラテン語の語源をたどると、リアリティのほうは『もの、事物』を意味するresから来ているし、アクチュアリティのほうは『行為、行動』を意味するactioに由来している」[木村 2000:13]と述べ、「リアリティ」と「アクチュアリティ」を区別します。そして、科学はリアリティを扱うことはできるが、アクチュアリティを扱うことはできないと言うのです。
木村さんは、「リアリティ」と「アクチュアリティ」という二つの現実の二義性はそのまま「生命」の二義性でもあると言い、リアリティとして捉えられた生命は、「受胎から死亡までの一定期間、この生物体に観察される生物学的活動の標識」[木村 1994:136]にすぎないが、アクチュアリティとしての生命は、「そもそも何らかの標識を媒介にして公共的に表示したり、それによって他人と共有したりすることの不可能な、絶対的な単独性の感覚」[木村 1994:136]であると説明します。
しかし、この「単独性の感覚」は、「私ひとりの孤独な生命の感覚として閉塞しているわけではな」く、「私はむしろこのアクチュアルな生命感をチャンネルとして、原理的には無限に多くの他者たち、あるいは生きとし生けるものすべてとのあいだに開かれた連帯感を感じとっている」[木村 1994:137]、というような普遍的な連帯性へと開かれたものだと述べています。このアクチュアルな生命感をチャンネルとして、動物や神々や死者たちをも含む他者たちとのあいだに開かれた連帯感によって把握される世界を、内山さんは「生命世界」や「生命の歴史」と言っているのでしょう。
もちろん、人間は、そのような「生命世界」をつねに生きているわけではありません。利益や功利性を求めて、「生命世界」をはみ出していくというのも人間の普通のあり方です。内山さんは、それを次のように言っています。
森という全体的な生命世界と一体になっていてこそ、一本一本の木という個体的生命も存在できるのである。
この関係は他の虫や動物たちにおいても同じである。森があり、草原があり、川があるからこそ個体の生命も生きていけるように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾なく同一化される。
伝統社会においては人間もまた、一面ではこの世界のなかにいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。人間は結び合った生命世界のなかにいる。それと切り離すことのできない個体であった。
伝統的な共同体の生命とはそういうものである。ところがその人間は「自我」、「私」を持っているがゆえに、共同体的生命の世界からはずれた精神や行動をもとる。
だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった。それが通過儀礼や年中行事であり、それらをとおして人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを、再生産してきた。
このような生命世界のなかで人々がキツネにだまされてきたのだとしたら、キツネにだまされる人間の能力とは、単なる個体的能力ではなく、共有された生命世界の能力であった。[内山 2007:111-112]
つまり、「キツネにだまされる能力」の喪失とは、生命的世界との一体性の喪失ではないということです。そのような一体性の喪失は、人間が人間になった時にすでに喪失したものと言ってもいいでしょう。しかし、人類は、そのような喪失に対して、「共有する文化」というものを作りだして、個別化・個人化に対する一種の「歯止め」にしてきたというわけです。リアリティの横行をアクチュアリティによって押しとどめていたと言ってもいいでしょう。ですから、近代化によって失われたのは、そのような歯止めの装置としてつくり上げて来た「共有する文化」であり、そこに含まれていたアクチュアリティ、すなわち個人化以前の「生命世界」(客観的世界とは異なる、人を包みこんでいた霊的な生命世界)だったのです。
【参考文献】
内山節
2007 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書
木村敏
1994 『心の病理を考える』岩波書店(岩波新書)
2000 『偶然性の精神病理』岩波書店(岩波現代文庫版)
*1:木村敏(きむら・びん)
1931年生まれ。専門は精神病理学。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授。