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第11回:『農は過去と未来をつなぐ』を読む。

1.減農薬運動がもたらしたもの
  ――主体性と自律性を奪っていたものは何か

1-1.日本の戦後と農業の歴史

 今回、主となるキーワードは、「専門家支配(professionalism)」と「技術」と「リアリティ/アクチュアリティ」です。それとともに、「自給」(自治)、「コモン(共)」、そして「包括性」、「多様性」といったキーワードを取り上げます。

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 著者の宇根豊さんは、福岡県農業改良普及員をしていた1978年に「減農薬運動」を提唱した人として知られています。「減農薬運動」は宇根さんの考えの原点ともいうべきものであり、今回の連載の第一のキーワードである「専門家支配」とも関連します。「専門家支配」とは思想家のイヴァン・イリイチ*1の言葉で、「人びとを無能化する専門家(disabling professions)」による支配を生みだすようなシステムを指しています[イリイチほか 1984]。「減農薬運動」について、まず他の著作によって少し歴史的な説明を補足しておきましょう。

 戦後の農業は、農薬・化学肥料・農業機械という農業技術の導入によって大きく変化します。それによって生産性(とりわけ労働生産性)は大きく向上しました。しかし、その陰で、農薬の大量散布のために農薬中毒による健康被害が農民のあいだに広がり、死者まで出る深刻な事態も生じました。公害が社会問題になったのと同じ1970年頃、農産物への残留が問題となり、BHCやDDTといった毒性の強い農薬の使用が禁止されるようになりました。けれども、その結果、低毒性の農薬が開発され、農薬散布量はむしろ増えていったのです。
 宇根さんが福岡県の農業改良普及員になったのは、そのような状況のさなかの1973年です。農薬が問題だという意識はありましたが、どうすればよいのかはわからないまま、5年間は、地域ごとに日にちを決めて農薬を一斉に散布する「一斉防除」の指導を続けていました。その頃には無農薬の有機農業も少数ですが始まっていました。その第一世代の実践者には農薬中毒をきっかけに始めた人が多かったようです。また、一斉防除で農薬を散布しない農家の田に病害虫の被害がないという経験もあったようです。それでも、一斉防除が長いあいだ続けられたのは、「農薬は同じ日に一斉に、共同で散布しないと効果がない」と専門家が指導していたからだといいます。その理由は、「農薬散布しない田は病害虫の発生源になって周囲の稲に害を及ぼす」、「農薬散布しない田には散布した田から病害虫が逃げ込んでくる」というものでした。これらは根拠があったわけではなく、今となっては完全に間違ったものだと分かっていますが、それが明確になったのは、宇根さんたちが始めた減農薬運動とその中で発明された「虫見板」によるものでした。
 虫見板とは、黒い下敷きのようなプラスチック板で、稲についた虫をその板に手で叩き落とすと虫が一目でどれくらいいるか分かるというものです。それは、減農薬でも(つまりスケジュールに合わせて年3回から6回も一斉に農薬散布していたものを、1、2回しか散布しなくても)被害がない、米は減収しないということを説得するために、いろいろ工夫して発明された道具でした。「害虫がこれくらいいたが、農薬散布しない場合でも害虫は○○程しか増えずに被害はなかった」という言い方ができるように、虫の数を数値化する必要があったのです。

 それによって目指したのは、「一人一人の百姓が自分の目で自分の田の状態を把握して、農薬散布の是非を判断する力を身につけること」[宇根 1996:36]でした。そこには、田は一枚一枚個性的で同じ田はないという認識がありました。虫見板を使った減農薬運動は、宇根さんと宇根さんの協力者であった農家の八尋さん、そしてその周辺の農民たちにも徐々に広がり、1983年には、福岡市農協が全会員(3000人)に虫見板を配布しました。けれども、市を超えて広がることはありませんでした。それが福岡県全体に広がり、さらに全国へと広がったきっかけは、1985年に九州で秋ウンカの大発生に見舞われ、福岡県内の多くの水田で稲が枯れていったなか、農薬散布回数を県内平均の半分以下に抑えていた減農薬運動の田んぼほど被害が少なかったという、減農薬の効果が目に見える形で現れたことにありました。

1-2.減農薬運動で見えてきた専門化支配

 減農薬運動は、この『農は過去と未来をつなぐ』にも書かれているように、農薬という近代化された技術そのものを否定するものではありませんでした。そのため、減農薬運動は当初、農薬を適正に使う技術であると受けとられ、無農薬を目指す人たちからは農薬を肯定しているように見えたといいます。ところがやがて、減農薬運動は、農薬適正散布の技術か、あるいは有機農業という農業技術か、という技術の改善を超えて、「百姓」(宇根さんは「農家」や「農民」ではなく、自称としても使われる「百姓」という語を使っています。その意味をみなさんも考えてみてください)の主体性や農というものの多様性、一人ひとりの情感といったものを抜きにして成り立っていた農業「技術」や指導のあり方、そしてイヴァン・イリイチの用語を使えば「人びとを無能化する専門家」のシステムそのものへのラディカルな批判へと展開していきました。そのあたりのことを、『農は過去と未来をつなぐ』を読みながら見ていきましょう。

 減農薬は農薬を拒否しません。むしろ、なぜ百姓がこんなに農薬を大量に散布するようになったのか、なぜ百姓には農薬を使用すべきかどうかの判断基準が身につかないのか、農薬散布技術には根本的な欠陥があるのではないか、と考えて、その対策を百姓といっしょに見つけていったのでした。農薬という科学技術を受け入れながら、その中に百姓を疎外する性格があることを、きびしく問いつめたのです。[宇根 2010:185]

 ここで言われている農薬散布技術の「根本的な欠陥」、つまり「その中に百姓を疎外する性格がある」ということ、それは、この技術がイリイチのいう「人びとを無能化する専門家」によって導入されたことと密接に関係しています。つまり、その技術が専門家によって外から指導され押しつけられる形で導入され、しかも、百姓が自分たちの田んぼ一枚一枚の虫の多様性や状況など知らなくてよい、そのような個別性・多様性を無視して一律に田んぼの虫を除去するという、効率性のみの観点から実施されたことが問題でした。減農薬運動は、農薬技術そのものを拒否するのではなく、そのような導入の仕方、専門家による指導のあり方が、百姓たちの主体性や自律性、自治能力を壊してしまうこと批判して生まれたものでした。

 農薬散布技術は、そもそもそれを使いこなすための判断技術が未形成のまま、提供されていることが問題だったのです。したがって、病害虫がいなくてもいても、ひたすら散布することにならざるをえないのです。これを「スケジュール防除」と言っていました。病害虫の発生に関係なく、毎年その時期になったら散布するという意味です。(中略)
 わたしはこういう指導をしている農業改良普及員や農協の営農指導員の責任は大きい、と主張したものだから、減農薬運動は相当圧力を受けました。しかし、虫見板を使いはじめた福岡市や旧糸島郡の百姓の活動が広がることにより、福岡県の農薬散布は半減しました。虫見板を使うと、農薬を散布しなくてもいいことがすぐにわかったのです。害虫はそんなにいつも大発生するわけではなかったし、益虫だってけっこうがんばってくれていたのです。それが虫見板で見えてきたのです。
 減農薬運動がたんに農薬散布を減らす程度の運動にならなかったのは、虫見板によって百姓が、虫を観察するようになったからでした。「これだけ害虫がいても、稲がこれだけ元気よくて、これだけの益虫がおれば、農薬はいらないだろう」という判断力が、百姓のものになっていったのです。(中略)
 減農薬運動は、近代化技術の主体を百姓にとりもどす運動でした。上意下達式の近代化技術を普及するやり方への痛烈な批判となったのはとうぜんのことでした。なぜなら、百姓の観察や研究を無視した技術は、自然に傷を負わせるだけでなく、その傷から百姓の目をそらせてしまうことになるからです。このことは、百姓仕事の中のいちばん大切な、自然に向きあう情愛を破壊するからです。[宇根 2010:186-188]

 このように、減農薬運動は、たんに農薬を減らす運動ではなく百姓の主体性を回復する運動でした。それは百姓を無能化するような専門家支配、つまり、農薬をいつどういうときに散布すればいいかを自分たちでは判断できないようにするシステムを拒絶して、その農薬散布の技術を自分たちのものにしたということのほうがより重要だということです。つまり、農業改良普及員や農協の営農指導員といった制度化された専門家の支配を批判し、近代化された技術を自分たち一人一人にあった技術、自分たちでコントロールできる技術に変えていったのです。

1-3.「官の技術」と「民の技術」

 このことについて、大野和興さん*2が『日本の農業を考える』(岩波ジュニア新書)という本の中で対比している、戦後の米の増産をもたらした二つの農業技術の違いによって補足しておきましょう。その二つとは、「化学物質多投」と「保温折衷苗代」です。大野さんはこの二つを農業技術発展の「光と影」と呼んでいます。前者の化学肥料や農薬の多投が「影」で、保温折衷苗代の普及が「光」です。その光の部分である「保温折衷苗代」とは、長野県の農民(宇根さんの言い方では百姓)の荻原豊次が戦時中に開発したもので、寒冷地での稲の苗づくりの際に、畑の状態の苗床を油紙で覆って保温して苗の育成を早め、その後でそこに水を張って仕上げて田植えを早い時期に行ない、コメの収穫に重要な積算温度を確保するという技術で、畑苗代と水苗代を折衷したということで、このように呼ばれます。この技術は、農民どうしの情報網にのって短期間に全国に広がり、特に北日本の米の増収に大いに貢献したそうです[大野 2004:30]。
 大野さんは、「化学物質多投」と「保温折衷苗代」の二つが技術のあり方として対照的であると言います。それは、前者がその土地の自然のあり方を無視した「官の技術」であるのに対して、後者は、その土地の自然に合わせて、現場で農民が創意工夫を積み上げて作り上げた「民の技術」だという点です。この「官の技術」と「民の技術」の対比は、イリイチのいう「民衆のための科学」と「民衆による科学」の対比に重なっています。イリイチは、「民衆のための科学」を大組織の専門家たちによる研究で、日常生活とは何のつながりもないものとする一方で、「民衆による科学」は、商品化されることに感心がなく、市場経済から自らを切り離そうとする人びとによる探究で、「実行する人びとの現実の快楽と美しさを高めようとする」科学技術のことだと言います[イリイチ 1982]。宇根さんがこの本で使っている「農業技術」と「百姓仕事」の違いという言い方を用いれば、前者は専門家が百姓の主体性を奪う形で上から指導した「農業技術」であり、後者は百姓が主体的に自然を認識して生みだした技術であり、それは「百姓仕事」という全体の中から生まれ、その中にしっかり埋め込まれた技術ということになるでしょう。

 このことを、第5回の連載記事『TOKYO 0円ハウス0円生活』のところで使った「近い/遠い」という比喩と、この本の後で出てくる「農業技術/百姓仕事」の対比を使って説明すれば、次のように言えるのではないかと思います。まず、減農薬運動は、農薬という近代化技術そのもの拒否したのではなく、自分たちが判断しながら使うことができず、自分たちを無能化する農薬散布という「農業技術」を、自分たちで判断して使うような自治能力の回復によって「近いもの」にするものでした。つまり、それは、外のシステムから押しつけられた「遠い技術」を、「農」という営みの基層をなしている「百姓仕事」に埋め込んで、自分たちが主体的に使うことのできる「近い技術」としているのです。
 そして、そのような「再埋め込み」がなぜ可能かというと、農業技術と百姓仕事という対立が、すでにこの連載で触れてきた非真正な社会/真正な社会の対立と同じように――つまり非真正な社会は真正な社会なしには成り立たないが、普遍的な真正な社会は、それだけで成り立つという対立であるのと同様に――、二律背反的なものではなく、「百姓仕事」というものが普遍的かつ包括的で、農業技術をその一部として取り込むことができるからです。

 さて、宇根さんたちの虫見板を使った減農薬運動は、やがて「生きもの調査」へと発展していきます。それは、百姓仕事がもっていた全体性や多様性の回復につながっていき、百姓仕事が農作物だけではなく、「自然」や「風景」をも作っていることの発見に発展していきます。虫見板はたんに田んぼの害虫や益虫を数量化する道具にとどまらず、「虫を見ること」の楽しさの再発見のための道具になり、虫の名前を知りたいという百姓の気持ちを促しました(そのために宇根さんは虫の専門家である研究者の協力のもとで『減農薬のための田の虫図鑑』[農山漁村文化協会]を出版します)。そして、それは「ただの虫」の発見につながっていき、さらに、赤トンボや「ただの虫」や「自然」、そして「ただの風景」は、百姓仕事が生産している農産物だという考え方に発展していきますが、詳しくは宇野さんの著書を参考にしてください。

 

【参考文献】

イリイチ、イヴァン
 1982 「民衆による科学」『いま民衆の科学技術を問う』(シリーズ・プラグを抜く) 新評論

イリイチ、イヴァンほか
 1984 『専門家時代の幻想』尾崎浩訳、新評論

*1:イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)
1926~2002年。哲学者、社会評論家、文明批評家。過剰に効率性を求めるがあまり人間の自立、自律を喪失させる現代文明を批判した。

*2:大野和興(おおの・かずおき)
1940年生まれ。農業ジャーナリスト。主に農業/食糧問題を取材・執筆している。『日刊ベリタ』編集長。

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