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第7回:『モモ』を読む。

1.「モモの世界/灰色の男たちの世界」という対比

 では、今回からファンタジー作家のミヒャエル・エンデ*1の『モモ』を読んでいきましょう。
 この作品は、子供から大人まで楽しめるもので、読んだことのある人もいるかもしれません。面白い場面がたくさんありますが、どの場面が印象に残るかは人それぞれでしょう。

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 ここでは人類学的視点を考えるために、まず、この作品の設定に注目したいと思います。
 『モモ』では、二つの世界、二つの社会のあり方が対比されています。「モモのつくる世界」と「灰色の男たちのつくる世界」の対比です。この「モモの世界/灰色の男たちの世界」という対比のそれぞれの項の意味内容を挙げていくことが、この作品の解釈になっています。すなわち、「質的時間(=生きた時間)/量的時間(=死んだ時間)」、「贈与経済/市場経済」といった対比が、「モモの世界/灰色の男たちの世界」という対比の意味することだということができます。ただし、この二つは、まったく背反するもの、相互に排斥しあうものとして対立するわけではありません。そのような対立の仕方を理解すること――はっきり対立するような対立にも、いろいろな性格の違いがあるということを理解すること――がポイントとなります。

1-1.『モモ』を読むためのキーワード

 キーワードをいつくか挙げてみましょう。一つめのキーワードは、第4回であげた「単独性(シンギュラリティ)」です。それは物語の冒頭近くに出てくるモモの〈聞く力〉と関係しています。そして、この物語の全体の主題である「時間」と深く結びついています。二つめのキーワードは「システム」です。『モモ』では「灰色の男たちの世界」として現れています。このモモの物語では、「モモがつくる世界」と「灰色の男たちがつくる世界」がはっきり対立するものとして描かれています。
 この二つのキーワードと、二つの世界の区別は、じつはこの連載のキーワード、キーコンセプトでもあり、これからも何回も出てきます。この二つのキーワードとその対比で明らかにしたいのは、第6回で取り上げたレヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」という、二つの社会のあり方の区別です。
 では、モモの物語を読んでいきましょう。

1-2.『モモ』の贈与経済―貧しい人たちの「歓待」

 みんなはさっそく、モモの住んでいる半分くずれかかったへやをかたづけて、できるだけ住みやすいところにすることからはじめました。なかにひとり左官屋がいて、小さな石のかまどまでつくってやりました。さびたえんとつも、とりつけられました。年よりの指物師が、古い木箱の板をつかって、小さなテーブルをひとつと、いすを二つつくりました。そしてさいごに女の人たちが、うずまきもようのかざりのついた使いふるしの鉄製ベッドと、ちょっぴりやぶれただけのマットと、二枚の毛布をはこびこみました。廃墟の舞台下の石の穴ぐらは、これできもちのいい小べやになりました。絵ごころのある左官屋は、さいごのしあげに壁にすてきな花の絵をかき、それに額ぶちと止め金までかきそえました。
 そのあとこんどは、みんなの子どもたちが食べもののおすそわけをもってやってきました。ある子はチーズをひとかけら、ある子はパンをひとかたまり、ある子はくだものをすこし、というぐあいです。子どもの数がとてもおおいだけに食べものも山ほどあつまって、その晩はみんなでモモのひっこし祝いにちょっとしたパーティをやれたほどです。まずしい人たちだけがやり方を知っている、心のこもったたのしいお祝いになりました。
 こうして、小さなモモと近所の人たちとの友情がはじまったのです。[エンデ 2005:19-20]

 ここでは、「モモと近所の人たちとの友情」のはじまりが語られています。近所の人たちは、モモに生活に必要なあらゆるものを贈与しています。歓待していると言ってもいいでしょう。そして、人びとは、最後は食べ物などを持ち寄って、パーティになります。この食べ物のやりとりは「シェアリング・分配」と呼べるものです。近所の人たちのこの「贈与」と「歓待」と「分配」は、貧しい人びととされている彼らが、「市場経済」だけではなく、「贈与経済」に生きていることを表しています。

1-3.モモの〈聞く力〉

 生活に必要なものを人びとに贈与されているモモは、与えられるだけの存在、幼い子どもと同じ存在のようにみえますが、モモは人びとから扶養される子どもなのではなく――それをモモははっきり拒否しています――、友だちどうしの関係にあるとされていることが重要です。扶養される幼い子どもであれば、いろいろ貰ったものにお返しをする必要はありません。しかし、対等な友だちどうしであれば、贈り物に対しては何か贈り物を返す必要があります。何も持っていないモモは何を人びとに返すことができるのでしょうか。実は、モモは不思議な力を持っていて、それによって友だちである人びとにお返しができるのです。それがモモの〈聞く力〉です(引用部分にある、「いすを二つ」作ったことはそれを象徴しているのでしょう)。モモと近所の人たちとの関係、すなわち友だちこそ、代替不可能な「単独性」(シンギュラリティ)どうしの関係ですが、モモの〈聞く力〉はこの「単独性」と結びついているのです。

 たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。
 こういうふうにモモは人の話が聞けたのです![エンデ 2005:24]

 石田英敬さん*2は『自分と未来のつくり方』(岩波ジュニア新書、2010)という本のなかで、この部分を引用したあと、つぎのように言っています。

 この人が感じたような「おれはおれなんだ」ということ、自分はかけがえのない存在なんだというのを、「単独性」とか「特異性」とか言います。SMAPに「世界に一つだけの花」という歌があったけど、それと同じことです。みんなそれぞれが世界にたったひとりしかいない単独な存在で、だからかけがえのない大切な人間なんだということ。モモたちの世界にはこういう価値観がある。だけど、あとで灰色の男たちがやってくると、これがひっくりかえされてしまうんですね。[石田 2010:14]

 石田さんは「モモの世界」と「灰色の男たちの世界」を対比的に捉えています。というより、エンデが対比的に描いています。類型化して対比させるという手法はファンタジーではふつうのやり方ですが、ただし、その対比をどう捉えるかが重要なことで、単なる善悪の対比として描かれているわけではないと思いますし、また同一平面・同一水準で対立していると捉えるとこの対比は平板なものになってしまいます。

1-4.〈聞く力〉と「単独性(シンギュラリティ)」

 話を戻すと、石田さんがここで使っている「単独性」と「特異性」という語は、「シンギュラリティ」という語の訳語です。モモの〈聞く力〉によって、人は自分が壺のように「代替可能・取り替え可能な存在」ではなく、「おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ」ということに気づきます。このそれぞれ一人ひとりの「代替不可能性(irreplaceability、かけがえのなさ)」「比較不可能性」あるいは「唯一無比性」を、哲学者は、「シンギュラリティ」という言葉で表すのです。「特異性」と訳されることのほうが多いのですが、ここでは「単独性」という訳語を使いましょう。というのも、かけがえのない存在、唯一無比の存在であるためには「特異」である(他人と特に異なっている)必要はないからです。
 単独性、あるいはかけがえのなさ・代替不可能性は「個性」や「アイデンティティ」とはまったく違うことです。「個性」は他の人との比較によるものです。個々のかけがえのなさや代替不可能性は、他と比較した違いによって規定されるものではなく、たとえ一卵性双生児であっても、そしてなんのとりえもなくても、個々人は唯一無比で代替不可能なものです。「世界に一つだけの花」という歌の「オンリー・ワン」を「個性」と読み違えて、個性批判をする人が、歌が流行った当時もいまもいますが(たとえば、社会学者の土井隆義さん*3が『「個性」を煽られる子どもたち』のなかで「個性」を煽るような歌だというような批判をしています)、「オンリー・ワン」は文字通り比較不可能な「唯一無比性(ユニークネス)」、「かけがえのなさ」ということでしょう。それは「個性」とは対立するものです。「個性」とは「キャラ」や「役割」や「能力」と同様に、比較可能で代替可能なものですから。
 では、モモは、どうして「聞く」だけで、そのような自己の「単独性」「かけがえのなさ」を自覚させることができるのでしょう。それは、おそらく「聞く」という受け身の行為が、相手が唯一無比の存在であるということを示す行為だからです。
 一方、「灰色の男たちの世界」には唯一無比性や単独性どうしの関係がないといえます。灰色の男である時間貯蓄銀行の外交員BLW/553/cは、モモの「あんたのことがすきな人は、ひとりもいないの?」という問いで、灰色の男ではいられなくなってしまいます[エンデ 2005:143]。

 また、「時間をはかる」ということについて、エンデはつぎのように言っています。

 時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さにかんじられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
 なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。[エンデ 2005:83]

 このように「はかる」ことのできない、「生きるということそのもの」である時間が「質的時間」ということであり、はかることで数量化した抽象的な時間が「量的時間」です。『モモ』では、「モモのつくる世界」には「生きた時間」=質的時間があり、「灰色の男たちの世界」には、「死んだ時間」=量的時間が流れています。


【参考文献】
石田英敬
 2010 『自分と未来のつくり方』岩波ジュニア新書
エンデ、ミヒャエル
 2005 『モモ』大島かおり訳、岩波少年文庫
土井隆義
 2004 『「個性」を煽られる子どもたち』岩波書店

*1:ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)
1929~1995年。児童文学作家。『モモ』の他に『はてしない物語』、『鏡のなかの鏡-迷宮-』などがある。1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚、長野県の黒姫童話館にはエンデに関する資料が多く収集されている。

*2:石田英敬(いしだ・ひでたか)
1953年生まれ。フランス文学者、メディア情報学者。東京大学教授。フランスの思想家、ミシェル・フーコーの研究者として知られる。

*3:土井隆義(どい・たかよし)
1960年生まれ。筑波大学教授。専門は犯罪社会学、法社会学、逸脱行動論、社会問題論。

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