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第2回:『TOKYO0円ハウス0円生活』を読む。

2.ブリコラージュについて

 では早速、坂口恭平さんの『TOKYO0円ハウス0円生活』*1を読んでみましょう。

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 坂口さんは建築を専攻している学生のとき、卒業論文としてホームレスの家(これが矛盾した言い方になっていることに注意!)を「建築家なしの建築」の例として取り上げ、それを『0円ハウス』という本にしました。『TOKYO0円ハウス0円生活』は、隅田川沿いに「0円ハウス」を建てて生活している鈴木さんというユニークな人(坂口さんは鈴木さんを主人公にした『隅田川のエジソン』[幻冬舎文庫]という小説まで書いています)の家におじゃまして、いわばフィールドワークをして、その生活ぶりを書いた民族誌のような本です。民族誌とは人類学者がフィールドワークによって他者の生活と文化を描いたもので、その意味で、この本は文化人類学に近い本といえるかもしれません。それでは、読み解きながら文化人類学的な視点や思考、独特の問題設定とはどのようなものかを示してみましょう。
 一つめのキーワードは、「ブリコラージュ」です。レヴィ=ストロースは、『野生の思考』の中で、新石器時代から続いている「具体の科学」としての「野生の思考」の特徴をブリコラージュという比喩で表しています。ブリコラージュというフランス語は、専門家ではない者が、当面の目的に合わせてありあわせの道具や材料を臨機応変に用いて、自分の手で何かを作ることを指します。英語の「DiY, Do it Yourself」に近い意味です。レヴィ=ストロースは、ブリコルール(ブリコラージュする人)の思考を、近代的な思考であるエンジニア(技師)の思考(これを「栽培された思考」とも呼んでいます)と対比させるためにこの比喩を使っているのです。
 ブリコラージュの特徴は、特定の計画に無関係で、まだ何かの役に立つというだけで集められた雑多な道具や材料で何とかするということにあるのに対して、エンジニアの思考の特徴は全体的なプラン(計画)を表した設計図に即して考案された、単一の用途(意味)をもつ「部品」を用いることにあります。技師の用いる部品は、もちろん代替可能なものです。というより、代替=交換するためのものが「部品」なのです。その部品においては、計画=プランに適合した単一の機能以外のさまざまな性質は意味のないものとして消されています。それに対してブリコルールの用いるありあわせの雑多な素材は、特定の機能によって一義的に規定された固有の場所(用途)から引き離されたモノであるために、さまざまな潜在的用途や感性的性質や来歴を保持しています。

2-1.「概念」と「記号」

 そのような比喩によって、レヴィ=ストロースは、人類が最初から駆使している「野生の思考」と、近代になって一般的になってきた思考を区別しようとしたのです。エンジニアの思考=近代的思考=栽培された思考は、自分たちが決めたわけでもないプランに従った、単一の意味=機能しかもたない「部品」としての「概念」を用いた思考です。皆さんも学校で、使っているその言葉の「定義」は何かと聞かれたことがあるかもしれません。「ちょうどいまの気分にあっていたのでいろんな意味を込めて使いました」とか「音の響きが良いので」と言っても認めてくれないでしょう。一つの決められた用途に合った「部品=概念」になっていないからです。栽培されたものもある一つの機能=目的(近代では「商品」という目的)に合わせたものです。それに対して、ブリコルールの思考=人類に普遍的な思考=野生の思考で用いられるのは、ついでにこんな用途にも使えるかなと自分たちで選んで決めたさまざまな潜在的意味・多義性をもつ「記号」だとレヴィ=ストロースは言います。そこでは「音の響き」も否定されません。食べ物となる植物も、それが見てきれいだという意味をもつことを大事にします。それが自分たちで楽しむ「生活」に役に立つからであり、人類はずっとそのようにして自分たちの生活の仕方や意味を自分たちで作ってきたのです。

エンジニアの思考=近代的思考=栽培された思考=他人の決めたプランによる「概念」
ブリコラージュ=野生の思考=自分たちでプランなしに工夫するための「記号」

 近代的思考と野生の思考の対比というと、どうしても野生の思考はすでに過去のものだと思ってしまうかもしれません。しかし、レヴィ=ストロースは、「野生の思考」は人類に普遍的な思考であり、近代科学も、真に創造的な部分では「野生の思考」=ブリコラージュを用いているのだと言っています。けれども、そのことが見えないのは、近代的思考は、自分の中に「野生の思考」があることを認めず(認めてしまうと近代の優位が崩れてしまう)、野生の思考を抑圧し排除しているからです。その抑圧と排除によって、近代は非近代と自分を明確に分割するのですが、実際には人類学的普遍性をもつ野生の思考=ブリコラージュは、近代においても働いているというわけです。

2-2.隅田川のブリコルール

 この『TOKYO0円ハウス0円生活』に登場しているホームレスの鈴木さんの「0円ハウス」生活はブリコラージュに満ちています。その描写は、まず、坂口さんがナイロビで見た改造自転車と0円ハウス生活との類似性の指摘から始まっています。

 自転車を自分の使いやすいように改造するという行為は、0円ハウスでは珍しくない。壊れたところを拾ってきた部品で直したり、荷台を手作りで作ったりしている。日本ではあまり見られない光景だが、2007年1月に行ったケニアの首都ナイロビでは、逆に頻繁に見ることができた。……
 そのナイロビで様々な自転車に出会った。2人乗り用のハンドルまで付けられたもの。蛍光色のテープなどで派手に装飾されていたり、音響装置が付けられているものもあった。もちろん、すべて手作りである。
 ナイロビにはプロフェッショナルではない素人のデザインが溢れていた。それは、ぎゅっと締め付けられそうなくらい窮屈さを感じさせるナイロビという大都市に、隙間風を吹かせていた。力が抜けるのだ。
 そうしたデザインは、自転車だけではなく、車にも施されていた。路線バスにもだ。そして、街では手作りのヘンテコなものが色々動いていた。……
 「ただのオンボロじゃないか」
と思われるかもしれない。だが、表面は問題ではないと思う。それよりも自分で考えていることを形にしていくということ。それを彼らはごくごく自然に行っている。その根元のところは0円ハウスと同じなのではないかと僕は思う。工業製品に蛍光色テープを貼る行為。この対決がもっと都市を情熱的にさせていくんじゃなかろうか。0円ハウスが発していることも、これに近いような気がする。[坂口 2011:52-54]

 私たちは、工業製品は自分たちで作れないし直せないと思っています。作るにも直すにも「部品」が必要だからです。でも、私も長い間フィールドワークをしたことのあるケニアでは、工業製品も自分たちで何とか直したり改造したりします。他の製品の部品も決められたもとの機能と関係なく使います。もちろんちゃんとした部品を買うお金がないからでもありますが、他人が描いた設計図によって決められたものではなく、自分たちでなんとか工夫することが生活なんだと考えているからでもあります。その結果「オンボロ」になりますが、蛍光色テープを貼って楽しくもします。そして、鈴木さんの0円ハウス生活にもそのような工夫がたくさん見られます。坂口さんはそのやり方について、つぎのように説明しています。

 「ちゃんと許可を得てからもらうこと。そして、後始末を怠らないこと」
 これが、鈴木さんが都市のゴミから何かを拾う時の極意である。そうすることで、逆に材料を手に入れやすくすることに成功している。
 一般家庭から出てくる不燃ゴミ、資源ゴミも見逃すわけにはいかない。まだまだ使えると思われるようなものもどんどん捨てられるからだ。家電リサイクル法ができてから電化製品は減ってきたが、それ以外のものは新品でもゴミとして捨てられているのが現状のようだ。そうやって鈴木さんは家の材料をすべてゴミから調達しているのである。
 まるで山に住んでいる人たちにとっての草木のように、都市のゴミを自然物のように捉えて家を作っている。それはある意味、東京にとっての自然素材の家ということになるのかもしれない。[坂口 2011:59]

 

 鈴木さんは家だけではなく、その家を作るために必要な道具もまたすべて拾い物から転用している。とんかち、ノコギリ、メジャー、釘に至る、何から何まで路上から調達してきている。しかも、それぞれスペアまでも用意されている。それ以上手に入ったら友人にあげているそうだ。釘や道具も新品で捨てられていることもあるようで、鈴木さんの道具箱(もちろん、これも拾い物)にはいろんな道具が所狭しと並べられていた。

 まだ使えるものでも新しいものが手に入ると、その途端にいらなくなってしまう。都市における「ゴミ」というものの矛盾。それと、鈴木さん自体が持っている生活のアイデア。その二つがミックスされてこの、「総工費0円の家」は出来上がっているのである。[坂口 2011:61-62]

 坂口恭平さんは、『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)という本では、誰もが使えるようなありあわせのものをやりくりするようなやり方、所有の仕方をレヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」的所有とも言えると書いています[坂口 2012b:25]。つまり、鈴木さんの「0円ハウス・0円生活」は、「新しいもの」への欲望が創られ続けることで動いている消費社会が生みだす「都市のゴミ」(消費社会では必然的にまだ使えるものやほぼ新品のものが「ゴミ」となる)を「何かに使えるもの」として見るブリコルールの思考によって出来上がっているというわけです。
 しかし、それだけで、「0円ハウス・0円生活」が成り立っているわけではありません。次回は、鈴木さんの周りにある「贈与と分配」というモノや情報のやり取りをみていきます。

 

【参考文献】
クロード・レヴィ=ストロース
 1972 『構造人類学』荒川幾男ほか訳、みすず書房
 1976 『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房
坂口恭平
 2011 『TOKYO0円ハウス0円生活』河出文庫(初版2008年、大和書房)
 2012a 『隅田川のエジソン』幻冬舎文庫
 2012b 『独立国家のつくりかた』講談社現代新書
 2016 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』角川文庫(初版2010年、太田出版)

*1:『TOKYO0円ハウス0円生活』(大和書房、2008年/河出文庫、2011年発行)
坂口恭平=著。隅田川のブルーシートハウスに住む“鈴木さん”に密着して書かれた一冊。

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