第28回:失われた「生活からの視点」

1.都市のなかのフィールドワーク

1-1.人類学的視点とは

 本連載の第1回でも記しましたが、20世紀最も偉大な人類学者であるレヴィ=ストロース*1は「人類学は、それに固有の何らかの研究テーマによっては、他の人文・社会科学から区別されない」と言っていました。つまり、「未開」社会という研究テーマや研究対象によって区別されるのではないというのです。それでは人類学は何によって他の人文・社会科学と区別されるのか、ということについて、レヴィ=ストロースは、「世界のある種のとらえ方、あるいは、問題を提起する独特のやり方」にあるのだと言っています。この人類学独特の「世界のとらえ方、問題の提起の独特のやり方」を少しでも理解してもらうために、ここまで、人類学以外のさまざまな本を読みながらそれを示してきました。
 今日はこれまでの記事を振り返って、「人類学独自の視点」についてまとめた後、その視点を使って人類学に何ができるのかということについて、お話したいと思います。本連載でも何度か触れてきましたが、人類学者のフィールドワークが、他の学問のフィールドワークと違っているのは、それが「住み込み」のフィールドワークであるということです。これに対して、社会学者など他の人文・社会科学のフィールドワークは多くの場合、「通い」のフィールドワークを行います。
 フィールドワークと結びついた人類学の「世界のある種のとらえ方、あるいは、問題を提起する独特のやり方」とは、日常的な「生活」のなかで世界をとらえること、そこから人を理解することにあります。つまり、人類学独特の視点とは、「生活からの視点」ということだと言っていいでしょう。では、そのような視点は、遠い「異文化」で「住み込み」のフィールドワークをしなければ身につかないかといえば、そうではありません。フィールドワークをしなくても、「生活」に自覚的になることはできるのです。

1-2.世界の客観化で失われたもの

 むしろ問題は、誰もが生活をしているのに、どうしてそこからの視点の重要性を見失うのだろうか、ということのほうでしょう。チェコ生まれの小説家ミラン・クンデラ*2は、『小説の精神』という本の冒頭で、1935年に哲学者フッサール*3が行なった講演「ヨーロッパ諸学問の危機と超越論的現象学」について触れています。クンデラによれば、その講演でフッサールは、ヨーロッパ諸学問が直面している危機は、ガリレイやデカルト以降、諸学問が世界を技術的ないしは数学的な対象に還元してしまい、生=生活の具体的な世界、フッサールの言葉でいえば、「生活世界」を学問の領域から排除してしまったことによるものだと述べたのです。つまり、学問が「生活」を排除したのは、世界を数量化できる対象に還元するためだったというわけです。それによって、諸学問は飛躍的に発展しましたが、それは、さまざまな専門分野のトンネルの中に人間を閉じ込め、専門分野のトンネルのなかを進めば進むほど、人間はますます盲目になり、フッサールの弟子だったハイデガー*4「存在忘却」と呼んだもののなかに落ち込んでしまったと、クンデラは言います。
 ちなみに、ハイデガーのいう「存在忘却」とは、本来、代替不可能な存在であるはずの人間(現存在や実存とハイデガーは言いかえています)が誰でもいい人のように代替可能なものとなってしまうことを指しています。この連載で使ってきた言葉でいえば、「単独性」を忘れてしまうということです。つまり、数量化されて捉えられた世界、あるいは同じことですが、世界の外に足場を作って(それが客観性ということです)、そこから世界を俯瞰するようにして捉えられた世界(それは自然科学だけでなく社会科学もそのように捉えようとしていました)からは、個々人の具体的な「生活」や「単独性」は排除され、忘れられてしまうのです。フッサールやハイデガーは、そのような、自分だけが世界の外に出ていてそこから世界を数学的な対象に還元して全体を俯瞰することで得られる客観性をまやかしだとして批判したのです。
 誰もが生活をしているはずなのに、人びとや学問が「生活からの視点」を見失ってしまうのは、技術的・数学的な対象に世界を還元してしまい、そのように数量化できる世界だけを意味のある「リアリティ」として捉えるようになったからでした。数量化できず、技術的・数学的対象に還元できない「生活」は、科学や学問のとらえるリアリティから排除されるしかないものでした。そして、そのような世界像は科学や学問だけではなく、現代社会のリアリティの基盤となっています。それによって、エンデが『モモ』で描いたような「灰色の男たちの世界」、すべてが数字に還元され、すべてが代替可能な存在となってしまっている世界が私たちを飲みこんでしまっています。フッサールに影響を受けた哲学者のハバーマス*5は、そのような現代社会の状況を「システムによる生活世界の植民地化」と呼んでいました。つまり、「生活からの視点」を見失ったのはシステムに植民地化されたからというわけです。

1-3.「小説の精神」と人類学

 フッサールは、技術的・数学的な対象に還元できない「生活世界」をヨーロッパの諸学問に取り戻すために、現象学という哲学の流れの一つを創りました(鷲田さんも現象学の流れを汲む哲学者です)が、クンデラはなにもフッサールや現象学の話をするために、フッサールの1935年の講演のエピソードを持ちだしたわけではありません。
 クンデラは、フッサールやハイデガーが、ガリレイやデカルトの創りだした近代を断罪したけれども、二人の現象学者は、ヨーロッパの近代を確立したもうひとりの者を忘れていると言います。セルバンテス*6です。セルバンテスは『ドン・キホーテ』を書いて、近代ヨーロッパの小説の生みの親とされています。クンデラは小説家として、小説こそが、すべてを数字や社会的機能や単純化された紋切り型の言葉(すなわち同一性)に還元しようとする近代の「還元の渦巻」のなかで、その渦巻に逆らって「生活世界」を絶えず照らしだし、「存在忘却」から私たちを守ることを存在理由としてきたというのです。
 しかし、現代社会では小説は(あらゆる文化と同じように)ますますメディアの掌中にあり、メディアは、万人によって受け容れられる同じ単純化と紋切り型を提供しつづけており、残念ながら小説もまた還元のシロアリに蝕まれてしまっていると言います。クンデラは、それでも、小説の精神は複雑性の精神と連続性の精神であり、単純な分割や代替可能なカテゴリーや紋切り型の言葉に抗して存在し、すなわち単独性に固執しつづけなければならないと示唆しています。
 クンデラの「小説の精神」について長々と説明したのは(私はクンデラの小説を読んだことはないのですが)、クンデラが、フッサールたちの現象学を例に出して、「生活具体的な世界」を近代社会が見失った理由を説明しているからというだけではなく、クンデラのいう「小説の精神」が、人類学独特の「世界のとらえ方、問題の提起の独特のやり方」と似ているからです。この連載のなかで、万人にとって理解可能なものとするために数量化という手法を用いる「非人称的科学」(これがフッサールのいう「世界を技術的・数学的対象に還元する」ヨーロッパの諸学問の特徴でした)が解明するのはリアリティであるのに対して、人類学は、単独性や複雑性をもつアクチュアリティを目指すものでなければならないと言いましたが、その意味で、人類学には、小説と現象学という先行者がいたと言ってもいいでしょう。
 しかし、本連載は「人類学をいかして生きる」と題しているのですから、ここでは、現象学や小説といった先行者に対して、人類学は優位に立っているとも言っておきましょう。たしかに、連載でキーワードにしてきた「単独性」「アクチュアリティ」を目指すことで、ものごとはけっしてカテゴリーにきれいに区分されずにつながっているという感覚をもつというのは、小説が守ってきたものでした(ここでいう「小説」は、紋切り型の表現や出来合いの物語に還元してしまう「通俗小説」ではないもの、要するに「あまり売れない小説」のことですが)。それは、近代科学における「概念」による分割と純化に対する批判的な世界の見方を提供していました。また、クンデラは、万人によって受け容れられるような共通の単純化と紋切り型を提供することで、政治的には対立していても同じ言葉=紋切り型の言葉を使って、誰とでも交替させられるような社会をつくりだしているメディアも、小説の敵だとしていました。
 しかし、小説でも現象学でも、これら一つひとつを批判して、人間本来の単独性や、数量化や一般化できないアクチュアリティを目指すとは言っても、それらをまとめあげる視点に欠けていたため、どうすれば存在忘却に抗い生活世界を取り戻せるかという点についてはバラバラで、有効な手立てを示すことがうまくできていないように思います。文化人類学がそれらの先行者に対して、より重要な貢献ができるとすれば、それらを「生活からの視点」としてまとめあげる独特の問題提起の仕方を知っていることにあります。その仕方こそ、レヴィ=ストロースの提唱した「真正性の水準」という社会の様態の区別の仕方なのです。


【参考文献】
クンデラ、ミラン
 1990 『小説の精神』金井裕・浅井敏夫訳、法政大学出版局

*1:クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)
1908~2009年。社会人類学者、民族学者。ブラジルのインディオの人類学的実態調査を契機として文化人類学に取り組む。構造主義の祖とされる。

*2:ミラン・クンデラ(Milan Kundera)
1929年生まれ。作家。1984年発表の『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになる。

*3:エトムント・フッサール(Edmund Husserl)
1859~1938年。哲学者。本質構造に基づいて対象をとらえようとする現象学を創始した。

*4:マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)
1889~1976年。哲学者。フッサールの助手を務め、実存主義に強い影響を受ける。主著に『存在と時間』がある。

*5:ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas)
1929年生まれ。社会学者、哲学者。ドイツフランクフルト学派の第二世代を代表する理論家。

*6:ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)
1547年生まれ。作家。『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の著者として著名。

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