第8回:灰色の男たちの世界

2.時間どろぼうの出現

 このように、『モモ』における主題の一つが、モモの〈聞く力〉がつくりだす社会と、灰色の男たちのつくる世界との対比にあることは確かでしょう。では、灰色の男たちが出現させる世界がどのように描かれているのか、モモの世界とはどのように異なる世界なのか、それを見ていきましょう。エンデは、つぎのように描写しています。

 毎日、毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器のよさを強調し、ほめたたえました。こういう文明の利器こそ、人間が将来「ほんとうの生活」ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれる、というのです。ビルの壁面にも、広告塔にも、ありとあらゆるバラ色の未来を描いたポスターがはりつけられました。絵の下には、つぎのような電光文字がかがやいていました。

 

  時間節約こそ幸福への道!
 あるいは
  時間節約してこそ未来がある!
 あるいは
  きみの生活をゆたかにするために――
   時間を節約しよう!

 

 けれども、現実はこれとはまるっきりちがいました。たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。もちろん、「モモのところへ行ってごらん!」ということばを知りません。[エンデ 2005:103]

 

 余暇の時間さえ、すこしのむだもなくつかわなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。
 だからもうたのしいお祭りであれ、ほんとうのお祭りはできなくなりました。夢を見るなど、ほとんど犯罪もどうぜんです。けれどいちばん耐えがたく思うようになったのは、しずけさでした。じぶんたちの生活がほんとうはどうなってしまったのかを心のどこかで感じとっていましたから、しずかになると不安でたまらないのです。ですから、しずけさがやってきそうになると、そうぞうしい音をたてます。けれどももちろん子どもの遊び場のようなたのしげなさわぎではなく、怒りくるったような、ふゆかいな騒音です。この騒音は日ごとにはげしくなって、大都会にあふれるようになりました。
 仕事がたのしいとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました――むろんそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることです。[エンデ 2005:104]

 

 そしてついには、大都会そのものの外見まで変わってきました。旧市街の家々はとりこわされて、よぶんなもののいっさいついていない新しい家がたちました。家をつくるにも、そこに住む人がくらしいいようにするなどという手間はかけません。そうすると、それぞれがちがう家をつくらなくてはならないからです。どの家もぜんぶおなじにつくってしまうほうが、ずっと安あがりですし、時間も節約できます。
 大都会の北部には、広大な新住宅街ができあがりました。そこには、まるっきり見分けのつかない、おなじ形の高層住宅が、見わたすかぎりえんえんとつらなっています。建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見えます。そしてこのおなじ外見の道路がどこまでもまっすぐにのびて、地平線のはてまでつづいています――整然と直線のつらなる砂漠です! ここに住む人びとの生活もまた、これとおなじになりました。地平線までただ一直線にのびる生活! ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、一センチのむだも、一秒のむだもないからです。[エンデ 2005:105-106]

2-1.現代社会によく似た「灰色の男たちの世界」

 「灰色の男たちの世界」が何を現しているかはわかりやすいかもしれません。それは私たちが生きている現代社会そのもののように描かれています。「灰色の男たちの世界」に出現した「広大な新住宅街」は、「まるっきり見分けのつかない、おなじ形の高層住宅が、見わたすかぎりえんえんとつらなって」いて、「建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見え」るもので、「ここに住む人びとの生活もまた、これとおなじになりました」と描写されています。それは、計算され、計画されて造られた部品のように代替可能なものからなる社会です。そこでは、ひとも数量化された代替可能な存在になっています。
 作者のミヒャエル・エンデ自身、あるインタヴューで、灰色の男たちは「我々の文明の至る所で用いられているような、・・・・・・空虚な抽象的思考、計量的思考を体現しています」[エンデほか 1986:35]と述べています。
 また、同じインタヴューでエンデは、この物語の着想について、「ある朝、朝食をとっている時、突然、稲妻のようにひらめいたのです。時間は、それを節約し貯めこむ人からだけ盗めるものだと。だって、時間を使う者は、時間を所有しませんからね。そうした者から、時間を盗むことはできません。そして、このひらめきに伴って、時間貯蓄銀行のアイデアが浮び、突然、物語全体が動き出したのです」[エンデほか 1986:32]と語っています。時間は抽象化・計量化することなしには貯めたり節約したりできません。「だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さにかんじられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるから」、カレンダーや時計によってはかってみたところで意味がないような「時間」は、その人の行為や意識の動きのなかにあるので、計量化できない「時間」であり、同時にその人の行為や意識から切り離すこともできない、すなわち抽象化もできないものであるとともに、単独性をもつその人のものであるわけです。

2-2.時間の節約で失われるもの

 物語の後半では、この生きた時間の単独性、唯一無比性は、「時間の花」によって表現されています。すこし先取りしてみておきましょう。

 「あの人たち、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?」モモはめがねのむこうをながめながらききました。
 「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」[エンデ 2005:225]

 

 これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花のなかの花、唯一無比の奇跡の花です!
 けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散ってしずんでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。でもマイスター・ホラにした約束を思いだして、じっとこらえました。
 むこうがわにいった振子は、そこでもさっきより一歩ほどおくまですすみ、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲きだしました。
 見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でした。ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。[エンデ 2005:241-242]

 

 そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、じぶんに語りかけられたものなのです! 全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となってモモのほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!
 おそろしさよりももっともっと大きななにかが、モモを圧倒しました。[エンデ 2005:243-244]

 

 「おまえの見たり聞いたりしたものはね、モモ、あれはぜんぶの人間の時間じゃないんだよ。おまえだけのぶんの時間なのだ。どの人間にもそれぞれに、いまおまえが行ってきたような場所がある。だがそこに行けるのは、わたしに抱いてもらえるひとだけだ。それにふつうの目では、あそこを見ることはできない。」[エンデ 2005:244]

 このように、唯一無比の「時間の花」や「音楽」は、唯一無比の個人(単独性)に属する計量不可能な「生きた時間」を表しています。灰色の男たちには、そのような唯一無比の時間がありません。だから、その生きた時間をその個人から切り離して、誰にでも同じ計量可能な「死んだ時間」にして、それを貯め込み消費することでいのちをつないでいます。「死んだ時間」だけが数量化することができ、また節約し貯めこむことができるのです。
 唯一無比の個人と結びついた生きた時間をいわば無理やり抽象化して計量可能なものにするのは、賃労働というシステムのためです。ほんとうは、1時間の労働時間もその人の行為や意識から切り離せないものです。けれども、それを、無理は承知で、誰がどこでいつ行なっても同じ1時間という時間の単位を抽象化して創りださないと、賃労働によるシステムが成立しないのです。そのようなシステムの中では、ひとは同じ1時間を労働するなら誰でも同じものとして扱われ、誰とでも交替できるような比較可能で代替可能な存在となります。
 そして、このシステムによっていったん抽象的な量的時間というものが創りだされると、賃労働をしていないときにも、人は抽象的な量的時間に追われるようになり、時間を節約しなきゃならないという強迫観念がつきまとうようになります。そうしないと、他の人に負けてしまうような気がするからです。それが「灰色の男たちの世界」です。

 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
 でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
 けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。[エンデ 2005:106]

 「ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしている」と言っていますが、この「ぜんぜんべつのなにか」とは何でしょうか。灰色の男たちに最初につけ込まれたのは、「時間が足りない」といつも思っていた床屋のフージー氏でした。フージー氏は、時間を節約するために、母親を養老院にいれて母親の世話をする時間を削り、足が悪くて車椅子の生活をしているダリア嬢のもとに花を持って訪ねる時間を削り、友だちづきあいをやめてしまいます。何を節約しているかといえば、「かけがえのない人」との付き合いや世話です。つまり、節約によって失われていくのは、単独性どうしのつながりによって作られる社会、つまり「モモのつくる社会」なのです。


【参考文献】
エンデ、ミヒャエル
 2005 『モモ』大島かおり訳、岩波少年文庫
エンデ、ミヒャエルほか
 1986 『ミヒャエル・エンデ―ファンタジー神話と現代』樋口純明編、人智学出版社

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