第26回:「きみはきみだ」

2.役割、秩序からの逸脱という「抵抗」

2-1.頼りない教師や看護師と築く固有性(単独性)の世界

 鷲田さんは、じぶんが存在する意味は、他者の世界のなかにじぶんが存在していること、他者にとってじぶんが意味のある存在となっていることだという話をしている箇所で、欠点をもった頼りない教師やドジな看護師の話をしています。すこし長く引用してみましょう。

 ロナルド・D・レインという精神医学者は、ひとは「じぶんの行動が〈意味〉するところを他者によって知らされることによって、つまり彼のそうした行動が他者に及ぼす〈効果〉によって、じぶんが何者であるのかを教えられる」と言っている。つまり、ぼくがぼくでありうるためには、ぼくは他の〈わたし〉の世界にある一つの場所をもっているのでなければならないということだ。それが他者の他者としてのじぶんの存在ということである。そういう他者の他者としてのじぶんの存在が欠損しているとき、ぼくらは、他者にとって意味あるものとしてじぶんを経験できない。(中略)
 このことは、自他の相互的な関係だけでなく、教える/教えられるという関係、看護する/看護されるという関係のように、一見一方通行的な関係についてもいえる。教師も看護師も、教育や看護の現場でまさに他者へとかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの〈わたし〉の自己同一性(アイデンティティ)を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり忍び込んできて、じぶんは生徒や患者という他者たちとの関係をもたなくても〈わたし〉でありうるという錯覚にとらわれてしまう。そしてそのとき、〈わたし〉の経験から他者が遠のいていく。
 が、たとえ一方通行的な関係であっても、自他はどこまでも相互補完的なものだ。生徒を規定しない教師はいない、教師を規定しない生徒もいない。とすれば、「先生はぼくらがいるところでもいないところでもいつも同じ態度だ」と感じさせる立派な先生によりも、点数をつけまちがえたり、遅刻して生徒をいらいらさせる欠点だらけの先生に習うほうがあるいは幸福なのかもしれない。すべてをそつなく正確にこなす看護師さんよりも、注射の針をなかなかうまく射し込めない看護師さん、食事や検温の時間を忘れたり食器を落としたりと、どじばかりしている看護師さんのほうが、患者にとってはありがたいかもしれない。なぜなら、そのような先生や看護師さんは、生徒や患者をたえず心配させたり、怒らせたり、疑心暗鬼にしたりすることによって、じぶんを他者にとって意味あるものとして経験させてくれるから。[鷲田 2005:132-134]

 この話は、なんのために挿入されているのか、すこしわかりにくいかもしれません。けれども、おそらくこういうことではないかと思います。つまり、教師や看護師の役割を完璧にこなすことは、相手をも生徒や患者という役割に落とし込むことであり、「誰でもいい存在」に還元してしまうことになる、ということを示すためではないでしょうか。完璧に役割だけをこなす教師や看護師を前にすると、じぶんが生徒や患者でしかなく、しかもそれは他の生徒や他の患者とかわりがなく、実際に取り換え可能な存在でしかなくなります。そして、取り換え可能な存在としての生徒や患者は、教師や看護師(や医師)が一方的に決めた規則に従順にしたがう存在でしかありません。
 そのとき、教師や看護師は、自分のことを、生徒や患者には依存しない自律的な主体として確立していると勘違いしてしまっています。そういった自律的な主体として、客観的・合理的な専門的知識を駆使することによって、生徒たちや患者たちを「正しい方向」に導いてコントロールする(支配する)立場にいるという勘違いです。そこに現れるのは、宇根豊さん*1を読んだときに取り上げた、「専門家支配」です。
 ところが、役割をうまくこなせずに「役割をはみ出てしまう」ような教師や看護師は、(確かに迷惑ではあるけれども)じぶんが誰とも取り替え可能な生徒や患者でしかないような状況を崩してしまい、そこに取り替え不可能なじぶんが現れるというわけです。そのような教師や看護師は、鷲田さんが引用している映画監督のヴェンダース*2の言葉、すなわち「きみは、どこに住もうと、どんな仕事をし何を話そうと、何を食べ、何を着ようと、どんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんなきみもきみだ」[鷲田 2005:78]という言葉のなかの「きみはきみだ」という、取り替え不可能な固有性(単独性)を思い出させてくれるのです。

2-2.ドレスダウンとしての抵抗がひらく無秩序の世界

 そして、そのことは、ファッションにおける「ドレスダウン」、つまり、着崩すこと、服の文法を〈ずらす〉ことにも現れるのだというように、つながっていきます。

 服の文法を外す、あるいは侵すような服が、いつも、ファッションの先端に位置するというのは、とても興味深いことだ。はじめてファッションについて本格的に論じた思想家ロラン・バルト*3は、その著『モードの体系』のなかで、「モードとは無秩序に変えられるためにある秩序である」とか、「モードはこうして、〈みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系〉というぜいたくな逆説をたくらむのだ」と書いている。これは、たえず新しいもの、別のものへ欲望を生産するモードの論理にふれていわれていることなのだけれど、これを、おさまりのよいイメージの鋳型のなかにじぶんを成形して入れることの不断の拒否ととるならば、この二つの文章はそのまま、ちょっとつっぱったストリート・ファッションの論理となる。[鷲田 2005:163-164]

 このように、鷲田さんは、ロラン・バルトの言葉を、制服を〈着崩す〉ことや、衣服の決まりをすこし〈ずらす〉ことが、秩序にがんじがらめに縛られた状態を無秩序へと変えることになると読み替えます。これは、ドジな教師や看護婦が、役割の秩序を無秩序に変えて、そこに役割という取り換え可能なじぶんではない、取り換え不可能なじぶんが現れる余地をつくりだすことと同じことなのです。鷲田さんは、そのことを、本の最後のところで、つぎのように言っています。

 どこをめくってもアンバランスばかり目に入ってくるぼくらの存在、それへの感受性が〈衣服〉という支えを呼び込むのだけれど、衣服はそのアンバランスを裏返し、ぼくらの小さな〈自由〉を変えてくれる。その自由とは、時代が陰に陽に強いてくるあるスタイルへの閉じ込めに抗って、「こんなのじゃない、こんなのじゃない」とつぶやきながら、たえずじぶんの表面を取っ替え引っ換えする、あのファッション感覚のことだ。それは、人生の「はずれ」を「はずし」へと裏返す感覚だ。自分が背負っているさまざまの人生の条件、そこにはひとそれぞれ、いろんな不幸、いろんなハンデがある。
 そういう「はずれ」を、軽やかで機知にとんだ時代への距離感覚(「はずし」)へと裏返す感覚、それがファッション感覚だとすれば、もっともスマートなひと、流行にそつなく乗り、いずれマジョリティもしぶしぶついてくるはずのものをいち早くとり入れるスタイリッシュなひと(流行人間)が、じつはもっともアンファッショナブルであるという事実は、逆説でもアイロニーでもないのだ。
 はずすこと、ずらすこと、くずすこと、それは職人の美学であり、ダンディズムの極であると同時に、弱きものの抵抗であり、そして着るひとの第一歩でもある。[鷲田 2005:170-171]


【参考文献】
鷲田清一
 2005 『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』ちくま文庫

*1:宇根豊(うね・ゆたか)
1950年生まれ。元・農と自然の研究所代表、農学博士。福岡県農業改良普及員をしていた1978年に「減農薬運動」を提唱したとして知られる。

*2:ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)
1945年生まれ。ドイツの映画監督。1970年代前後のニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人。『パリ、テキサス』など国際映画祭の受賞作多数。

*3:ロラン・バルト(Roland Barthes)
1915~1980年。フランスの哲学者、批評家。『零度のエクリチュール』出版以来、現代思想に影響を与え続けた。

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