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第18回:「みえない歴史」を生きる

5.現代社会における充足感の欠如をうめるには

5-1.相対主義の先へ

 前回までで、内山さんの著書『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』を通じ、「文化相対主義」および「歴史相対主義」という考え方について、お話ししました。ただし、内山さんの言っていることは、それだけにとどまりません。「客観的事実」という視点から、「現在中心主義」や「自文化中心主義」による歴史の描き方が客観的ではないと批判するのではなく、内山さんは「相対主義」を越え、知性でとらえられる客観的な世界を超えた歴史、すなわち生命の歴史へと向かいます。

 ショーペンハウエル*1が課題にしたことのひとつは、人間は客観的な世界のなかでのみ生きているのではなく、客観化できない世界、すなわち「世界はわが表象である」というような世界でも生きているということだった。そして、もしそうだとするなら、自然と人間が存在する世界の少なくとも半分は、客観的に時間の経過をとらえようとする歴史学では考察できないことになる。
 このショーペンハウエルの問題意識を引き受けた一人に、二十世紀初頭に活躍したベルクソン*2がいる。彼が問題にしたのは、時間を持続させながら存在していく自然と人間の根源にあるものは何かであり、彼はそれを知性を超えたものとしての生命それ自身のなかにみた。そしてもしもベルクソンの言うように、知性は生命のごく一部にすぎないとするなら、知性によってとらえられた歴史を歴史の全体にしてしまうことは、全く不当な試みだということになろう。なぜなら知性によってはとらえられない生命の歴史が存在しているはずだからである。知性を絶対化するならこの生命の歴史もみえない歴史になる。[内山 2007:146-147]

 知性による客観的な歴史は、つねに特定の立場から構成されたもの、つまり創りあげられたものであり、誤りも生みだす歴史です(そのように現実は特定の立場から創りあげられたものだとする立場を構成主義構築主義と呼びます)。もちろん、それは客観的な歴史を書こうとする人たちも自覚はしており、だから、つねに誤りうることを念頭に書き換えていくのだということになります。しかし、その書き換えは、主観や「私」というものをなるべく排除しようというものとなるでしょう。文化相対主義もそのような客観的歴史と同じ立場にたっているように思います。しかし、内山さんの議論からすれば、客観的歴史やその背景にあるとされる客観的世界を知性によってとらえようとすることが(そして、それとは逆に見える構築主義の立場も知性によってとらえられる歴史や事実のみを問題にしている点で同じように)、現代社会の充足感のなさを生じさせているということになるでしょう。
 ひとは、生命の歴史や身体の歴史など、知性によってとらえることができないゆえに「みえない歴史」とされる広大な世界のなかに生きていると、内山さんはショーペンハウエルやベルクソンにならって言います。しかし、現代ではそのような「全体としての自分の存在」と、「知性によって語られた歴史だけが歴史であるように思える」精神世界のなかで暮らしている「自分」とのあいだに大きな乖離が生じており、その乖離こそが充足感を乏しくしているのだと言います。

5-2.リアリティとアクチュアリティのあいだ

 その充足感の欠如は、よく言われるように、「物質的豊かさ」だけを追って「精神的豊かさ」を蔑ろにしてきたことによるものではないと内山さんは言います。問題となるギャップは、物質的豊かさと精神的豊かさの間にあるのではなく、知性によってつかみとられた現象としての自分の存在と、全体としての自分の存在との間、すなわち知性でとらえられたリアリティと、知性ではとらえられないアクチュアリティの間にあるものだからです。内山さんは次のように言っています。

 知性を介してしかとらえられない世界に暮らしているがゆえに、ここからみえなくなった広大な世界のなかにいる自分が充足感のなさを訴える。それが今日の私たちの状況であろう。そして、だからこそ、この充足感のなさを「心の豊かさへ」などと再び知性の領域で語ってみても、何の解決にもならないだろう。[内山 2007:157-158]

 その乖離は、いいかえれば、非真正な社会と真正な社会の間のギャップであり、そのギャップは、知性と客観的事実を価値のあるものとする現代社会が、アクチュアリティや真正な社会を正統なものではないと排除してきたことによっています。そのことは、アクチュアリティや、真正な社会における単独性どうしのつながりや、生命の歴史のつながりによってはじめて実感することのできる、自分の単独性(自分のかけがえのなさ)を蔑ろにしてきたということでもあります。誰でもいいという自分の代替可能性をつねに感じさせるリアリティの世界や非真正な社会において、充足感が乏しくなるのは当然のことだと言えるでしょう。そこでは、「全体としての自分の存在」=「私の単独性」が抜け落ちてしまうからです。この乖離は、非真正な社会のシステムにからめとられている現代社会においても存在している、真正な社会におけるアクチュアリティを再び価値のあるものとして描くことで埋めていくことができます。内山さんはそのために、「キツネにだまされたという物語」を排除しない歴史、いいかえればアクチュアリティを扱うことのできる歴史哲学を提唱しているわけです。
 そして、そのことは、「真正性の水準」を独自の視点としてもっていた人類学により強くあてはまると私は思っています。すなわち、アクチュアリティを排除する人類学は、人類学に値しないものであると。

 

【参考文献】
内山節
 2007 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書

*1:アルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)
1788~1860年。哲学者。カントの認識論に影響され、世界を表象としてとらえた。主著に『意志と表象としての世界』がある。

*2:アンリ・ベルクソン(Henri Bergson)
1859~1941年。哲学者。フランス唯心論の大成者。1928年、ノーベル文学賞受賞。

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