第24回:はぐらかし、やり過ごしという「日常的抵抗」

6.システム依存からの脱却

6-1.勝手に生きるための工夫

 この連載の第14回でも紹介した『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社、2007)の著者の内山節さん*1は、『怯えの時代』(新潮社、2009)という本の中で、現代社会の資本主義システムを変えるということについて、希望がまるでないような、絶望的なまでに悲観的な診断をしています。
 内山さんは、まず、「資本主義とは、拡大再生産をとげることを正常な姿とする生産様式」であり、無限の発展を予定した生産様式ですが、「この無限の発展を可能にするには、資源としての自然も無限に存在しなければつじつまが合わない」[内山 2009:24]のにもかかわらず、自然は有限であるという、根本的なジレンマが資本主義システムにはあると指摘します。内山さんによれば、「この問題に対するほとんどの経済学者たちの対応は、自然は無限に存在するものとして仮定する」というものです。この「自然は無限に存在する」という「仮説」は明らかに間違っています。間違いならそのシステムをやめたり修正したりすればいいはずですが、その「仮説」の上にシステムが成立している以上、それを否定したら、経営者も消費者も自分たちのあり方まで否定されてしまう。
 そこで要請されるのが、科学技術の進歩(イノベーション)という「魔法の杖」だと、内山さんはいいます*2。「科学技術の発展が不可能を可能に変えていくだろうと信じることによって、人々は自然の有限性という問題を脇に追いやった」[内山 2009:25]というわけです。間違った「仮説」に乗ったまま問題を脇に追いやるのは無責任のようにみえますが、そこに「問題の所在はわかっても、誰も解決手段をもてなくなってしまっている」という、現代社会の最も深刻な閉塞があります。つまり、現在蔓延しているのは、システムに問題があるのはわかっているが、ではシステムをどのように変えていけばいいのか、だれもわからないという閉塞感であり、このシステムを「無限の経済成長」というバカげた前提の上に、続けていくしかないという無力感です。
 松本さんの「『革命後の世界』を勝手に作ってしまう」というやり方の根底には、システム全体を変える前に「勝手に生きる」工夫はできるんだという思想があるように思います。つまり、システムにからめとられて生きている私たちが、そのシステムがつづいているなかで、システムとは異なる生き方のできる隙間をつくっていくほうが大事だという思想です。松本さんは、リサイクル屋の実践自体が革命(「リサイクル革命」)だと言っていました。でも、リサイクル革命はシステムを変えるという意味での「革命」ではまったくありません。そもそもみんながリサイクル屋になって中古品を循環させたら、たちまちリサイクルは止まってしまいます。それは、新品をつぎつぎに製造して売りだして、モノをつぎつぎと計画的に廃品化するような、現在のシステムのなかでしか「革命的」たりえないものです。それが「革命的」なのは、現在のシステムの中で別の原理で動く空間を創ろうということなのですから、システムを変えるという意味での「革命」ではありません。そのことを松本さんもわかっていると思います。彼の言う「革命後の世界」はいまここにしかないものであり、「革命」というものが意味のないものになったという意味での「ポスト革命の世界」と解釈できるようなものなのです。

6-2.はぐらかし、やり過ごして生きるという抵抗

 システムに絡めとられながらも、システムの意図するものとは別の生き方・やり方をするということ、そういったもののやり方は、文化人類学でいう「日常的抵抗」(ソフト・レジスタンス)――これが今回の最後のキーワードです――とつながるものがあります。今回キーワードの一つに挙げた「流用」という語も、日常的な抵抗の手段の一つを現すために使われるようになった言葉です。フランスの歴史学者のミシェル・ド・セルトー*3は、自分たちが作ったものではなく、支配的な文化から押し付けられたお仕着せのものを消費するだけの民衆・消費者が、それを支配者たちが指定している用途と異なる用途に流用しながら消費するという実践を、自分たちが包摂されている支配的なシステムへの「抵抗」として評価しました。それもまた「日常的抵抗」です。
 「日常的抵抗(ソフト・レジスタンス)」は、京都大学の松田素二さん*4の用語で、たとえば植民地状況や奴隷として連れてこられた地で生き延びるために、植民地体制や奴隷制度を破壊するような闘争・反乱を起こすのではなく、隷属的な状況で日々生きていくなかで、愚かさや無知や子どもっぽさを装う、サボる、ヒステリーを起こす、わざと怪我をする、ちょろまかす、逃げるなど、その日その日をなんとか過ごすためにやれることはやってみるという、抵抗には見えない抵抗、抵抗なのかどうかわからないような行為を指す言葉です。もちろん、抵抗には見えない行為、しかも当事者たちが抵抗と思っていないことを、当事者でもない人類学者が外から「抵抗」と呼ぶ必要があるのかという意見も出てきます。けれども、そのよう行為を「抵抗」とみなさないと、武器を手に立ち上がった少数の抵抗者以外の大多数の植民地のネイティヴや奴隷たちは、ただ受動的で従順に運命に従っていたことになってしまいます。また、一人ひとりの奴隷たちのかけがえのない単独性を描くためにも、奴隷たちや植民地のネイティヴにとって、苛酷な状況において単独な存在として生きていたことそれ自体が抵抗なのだと意味づけることが、カテゴリーに閉じこめる全体化・一般化にひびを入れる意義はあるし、松本さんの「反乱のススメ」のように、実際にそれらの行為がコモン=〈共〉をつくっていて、武器を取っての抵抗も、普段の「日常的抵抗」がつくりだしたコモンなしにはできないことでした。
 コタツ闘争のように、松本さんのいう「反乱」も他の「日常的抵抗」と同じく、すこしも「反乱」には見えません。たしかに、松本さん自身がそれを「反乱」と自覚しているところが、多くの日常的抵抗とは異なっているかもしれません(ただし、もちろん「自覚的な」日常的抵抗もあります)。けれども、その意義や効果はとても似ていると言えるでしょう。


【参考文献】
松本哉
 2008 『貧乏人大反乱――生きにくい世の中と楽しく闘う方法』アスペクト
 2011 『貧乏人の逆襲! 増補版』ちくま文庫
内山節
 2009 『怯えの時代』新潮社
毛利嘉孝
 2008 『はじめてのDiY』ブルース・インターアクションズ

*1:内山節(うちやま・たかし)
1950年生まれ。哲学者。特定非営利活動法人森づくりフォーラム代表理事など。1970年代より、東京と群馬県上野村を往復して暮らしている。

*2:原子力発電こそ、この「魔法の杖」の典型です。福島第1原発の大事故の後も、経済界から「原発再稼働なしには経済成長はない」という声が聞かれたのも、経済的合理性によるものではなく、原発が有限な自然を無限にする「魔法の杖」の象徴だからでしょう。経済成長というシステムを続けるには、ありえない「魔法の杖」にすがるしかないのですから。

*3:ミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau)
1925~1986年。歴史家、社会理論家。神学の研究のかたわら、歴史・精神分析・言語学等に関する論文を発表。パリ第8・第7大学教授を経て、ケンブリッジ大学特別研究員、カリフォルニア大学教授などを歴任。

*4:松田素二(まつだ・もとじ)
1955年生まれ。人類学者、京都大学教授。特に東アフリカ都市をフィールドにして、出稼ぎ民社会の動態や民族生成のメカニズムを研究している。専攻は社会人間学。

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