第23回:祭りで反乱を!

5.反乱のススメ

5-1.「コタツ闘争」による贈与と分配の生成

 地域で繋がって「勝手に生きる」ことをめざしても、やはり「ロクでもない制度」や社会の常識という壁があります。そこで、生きづらいぞと思ったら、むやみに反乱を起こしたほうがいいという「反乱のススメ」を松本さんは説きます。

 で、こんな感じでゲストハウスができたら、さらに知り合いができまくる。泊まりに来た人は、そのコミュニティの人々や、遠くから来た連中と知り合いまくるし、その街の人からしても、いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってくるので、旅行に出かけなくても全国各地・全世界に友達ができてしまう。うーん、これはすごい! 楽しすぎる!
 ところで、街にはすでに外国からの旅行者が集まるようなゲストハウスぐらいはいくらでもある。だが、たいていそういうところはそこだけで完結しており、これが地域で何かしでかしているような奴らや、商店街のオッサンや町内会のおばちゃんとつながっているところはほとんどないんじゃないか? こんなのがいろいろ街にできたら、そうとう面白いことになる。他の街にいく側にとってもかなり便利だ。とりあえずそこに泊まれば「ここではこんな奴らがこんなことをやってる」なんて情報が入ってきて、たちまち近所の人たちと仲良くなってしまう。(中略)貧乏人同士で仲良くなれば、相当強いし、これはやったほうがいい![松本 2011:121-122]

 しかし、その反乱も正面からの正直な攻撃ではなく、祝祭的なバカ騒ぎのススメになっています。そこでも、デモや選挙という既成のモノを別の目的――勝手に楽しむという目的――に「流用」するという戦術を用いています。

 では何をやるか? そう、ひたすら街に打って出て遊ぶのだ! 駅前で勝手に騒いでもいいし、制度で言えばデモや選挙なども使える。世の中のロクでもないことに対し「こんなものはクソくらえだ!」と要求しながら勝手に騒ぐのだ。これは実に簡単で、しかも相当笑える![松本 2011:128]

 

 反乱を起こし始めたのは、やはり大学の頃から。90年代後半くらいに、法政大学に通っていたことがある。この当時の法政がまたいい大学で、キャンパスもこきたなく、やたら貧乏くさいが、そのかわりかなり自由でいろんなことができるという雰囲気があった。ところが! 何を思ったのか、大学の経営陣は突如として金もうけ路線をとり始め、「いかに企業の役に立つ人材を育成するか」などというアホみたいなことをたくらみ始めた。で、その路線になったらもうロクでもないことになってきた。とりあえず学内をこぎれいにして、あれやったらダメ、これやったらダメと、規則まみれにして、挙句の果てには「学生が好き勝手に活動するな」みたいなことを言い出し、どうしようもないことになってきた。
 そこで、「おい、ふざけんな! こっちは学費払ってんのに、なんでわけの分からない人材育成の標的にならなきゃならないんだ!」という怒りが湧いてきて、「法政の貧乏くささを守る会」を結成した。[松本 2011:129]

 

 大学とは、自動車学校や英会話学校などとは違い、一方的に技術や知識を教わって終わりというところではない。学生が自分のやりたい研究などを思う存分やるところだ。そういう意味では学生こそがその場の主役であるはずだ。だが、大学の経営者連中は「ハイ、授業を受けたら余計な活動はしないでサッサと帰って」みたいなことを言い出しやがる。当然、それはけしからんだろうということになり、やみくもに大学に居座るという闘いをやることになった。
 まずはコタツ闘争。大学敷地内(もちろん野外)に突如としてコタツを設置し、帰宅途中の学生をとりあえず呼びとめて大宴会をやるというイベント。これがまたやたら盛り上がる。寒い時には鍋をやったり、秋には七輪でサンマを焼いたりしているとその辺を歩いている学生がやたら集まってくる。そのまま盛り上がってやたら大人数で騒ぎ始め、しまいには掃除のおじさんとか、こういうのが好きな教授なんかも混じって飲んでいってしまう。特に悪いことではないような気もするのだが、企業社会に媚びた大学作りをもくろんでいる連中にとってはこんなことがあっては困るらしく、激怒して怒鳴り込んでくる教職員もいる。だが、怒鳴り込んできたところで我々はコタツで鍋をやっているだけで、あまり弾圧してる姿もかっこよくない。[松本 2011:133-134]

 

 ・・・・・・ということで、この当時は夕方以降に大学に行くと、いつも誰かが鍋や焼肉をやっていて、至るところでケムリが上がっているという異様な光景が出現した。そのうち全然知らない奴らもバーベキューとかをやっていて、通りかかると「飲んでかない?」などと声を掛けられるのも日常茶飯事になってきた。うーん、これはいい大学だ。歩いているだけで仲間が増えまくる![松本 2011:134-135]

  このコタツ闘争の面白いところは、いったいどこが「闘争」なのか分からないけれども、ちゃんと闘争になっているところです。そして、注目すべきはコタツ闘争自体が「贈与―分配」の場の生成であり、祭=祝祭になっていることです。コタツを囲むと上下関係や地位などあまり意味がなくなります。掃除のおじさんも教授も学生も誰かわからない者も平等の関係になります。日本ではそのような場を無礼講と言いますが、人類学者のヴィクター・ターナー*1は、祭りや祝祭のときに出現する、日常の社会的地位がフラットな平等関係になる状況を「コミュニタス」と呼びました。それは「笑い」とも関係します。笑いもまた上下関係を平等なものにした共同性(コミュニタス)を作りだし、さらにそれを周囲の人びとに感染させて巻き込んでいきます。

5-2.制度の流用が革命を起こす

 地道な鍋闘争も重要だが、世の中には「デモ」という素晴らしい武器がある。警察署に届け出を出しておけば、ちゃんと出発地から到着地まで道路を使わせてくれるのだ。しかも、おまわりさんの交通誘導つき! これはすばらしい。それで、もちろんただのパレードではないので、思い思いの主義主張を街にぶちまけていいのだ。もちろんタダ!
 まあ、外国のニュースなんかを見ても分かるが、デモってものは普通、勝手に巻き起こって大騒ぎになったりするもんで、本来は許可を取ったりするようなものではない。が、日本の制度では実にマヌケなことに事前に届け出をしなければならない。だが、よく考えてみたら届け出さえ出しておけばなんでもありということでもある。
 世の中に文句の多い、我々貧乏人にはうってつけのシステムではないか! よし、社会に対して怒りまくっている諸君、貧乏すぎて何もすることがない諸君、なんか面白いイベントがないかと街をウロウロしている諸君! デモをやりまくったほうがいいぞ!! [松本 2011:148-149]

 そして、もっとも「流用」らしい「流用」は、選挙という制度の「流用」です。選挙は、議会で発言したり議決に参加するために「議員」になることが目的の制度ですが、それを「街頭を我々の手に奪い返す」ために流用しているのです。

 ってことで、ちょうどその頃まんまと選挙が近づいていたので、さっそく立候補することにした。07年4月22日投票の杉並区議会選挙だ。
 言うまでもないことだが、議席が欲しいのではなく、街頭を我々の手に奪い返すのが目的だ。ウソばっかりついて何とか当選し、議会に出てからマヌケなジジイども相手に主張するなど、まどろっこしくてやってられない。選挙期間中に、駅前あたりに規制や抑圧だらけの窮屈さを取り払った解放された空間、言ってしまえば「革命後の世界」を勝手に作ってしまうのだ。[松本 2011:174]

 ここで「『革命後の世界』を勝手に作ってしまう」という言い方がでてきます。松本さんの活動や考えの特徴を端的に表した言い方のように思います。「革命」とは社会のシステムを変えることです。いいかえれば、社会全体のシステムを変えるには「革命」を起こさないとできないということでしょう。そして、「革命後の世界」として「社会主義」という別のシステムも提案されていました。けれども、現在、「別のシステム」に変えることというのは希望としての意義が失われています。それ以上に深刻なのが、どんな形であれ、システムを変えるということ自体、不可能というか、別のシステムに変えることでちっとも問題は解決しないという閉塞感があるということです。松本さんが言っている「『革命後の世界』を勝手に作ってしまう」というのは、不可能に思えるシステム全体を変えるような「革命」を経ずに、「革命後の世界」を自分たちの日常に作ってしまうということです。そこには閉塞感を振り払ってしまう知恵があるように思います。
 次回、システム全体を一気に変えるような「革命」を起こすのではなく、日常的にローカルな場で「反乱」を起こすという松本さんのやり方の意味をみていきたいと思います。

 

【参考文献】
松本哉
 2011 『貧乏人の逆襲! 増補版』ちくま文庫

*1:ヴィクター・ターナー(Victor Witter Turner)
1920~1983年。文化人類学者。宗教儀式・通過儀礼等の研究で知られている。

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