第15回:災因論で読み解く「出来事の単独性」

2.WhyとHowをつなぐもの

2-1.アザンデ人の災因論

 前回、「災因論」とは不幸の「原因」を説明するためのものだと言いましたが、「原因」とは言っても、それは科学の法則による因果関係によって説明される「原因」ではありません。科学の法則は、ある特殊な状況のみで成立するのではなく、つねにどこでも、すなわち一般的な条件の下で成立することが示されなければならないものです。逆に言えば、科学の法則による因果関係、原因の説明では、どこでもいつでも誰にでも通用する一般性しか言えません。いいかえれば、科学的法則は、ある事象がどのようにして(how)起こるかを説明することはできますが、それがなぜ(why)特定の時間、特定の場所で特定の人に起こったのかを説明することはできないのです。
 20世紀のイギリス社会人類学を代表する人類学者であるエヴァンズ=プリチャード*1は、『アザンデ人の世界』(原題を訳せば『アザンデにおける妖術・託宣・呪術』)という本のなかで、アフリカの(現在の国名で言えば)南スーダンと中央アフリカとコンゴ共和国の国境地帯に住むアザンデ人の社会において、不幸な出来事が誰かの「マング」=妖術(ウィッチクラフト、呪い)のせいだと語られる「妖術信仰」について分析しています。農作物が不作になれば、それは妖術のせいだとされ、切株に躓いてけがをすれば、それは妖術師が自分に妖術をかけたのだと言い、妻が不機嫌で夫に従順ではないのも妖術のせいにされます。それらの語りについて、エヴァンズ=プリチャードは、「アザンデ人の妖術信仰は、現象や出来事の自然の因果関係を完全に無視した、神秘的な因果関係の信仰なのだろうか」と問います。そして、エヴァンズ=プリチャードの出した答えは、そうではないというものです。

 例えば、アザンデでは穀物貯蔵小屋は暑い昼間の暑さ除けによく使われ、日中の猛暑を避けてその下で座っておしゃべりやゲームをしたりして過ごすことが多いのですが、古くなった穀物小屋は支柱がシロアリに喰われて倒壊することがあります。もし小屋が倒壊して何人かの人が下敷きになってけがをすることが起こったとすると、アザンデの人たちは、妖術のせいにします。私たちなら、小屋が倒壊した「原因」は支柱がシロアリに喰われていたからだと言うでしょう。また、小屋の下に人々が座っていたのは日中の猛暑を避けるためであり、それが、小屋が倒壊したときに何人もの人がそこにいたことの原因だと考えます。私たちにとってその二つの出来事は別々のことで、その二つの因果関係が、なぜある特定の瞬間に特定の場所で交差したかを説明することはできないとエヴァンズ=プリチャードは言います。私たちにとって、それは偶然の一致でしかなく、二連の因果関係のあいだには相互関係がないからです。

 ところが、エヴァンズ=プリチャードによれば、アザンデ人の「妖術」という思考はそのあいだの「失われた環」を埋めることができます。彼らは、支柱がシロアリに喰われていたことを知っているし、それを無視しているわけではありません。また、人々がその下にいたのは炎天下の暑さを避けるためだということも知っています。しかし、それに加えて、なぜこれら二つの出来事が時間と空間を同じくして起こったのかということも知っています。それは妖術が作用したからなのだと。
 こうして、エヴァンズ=プリチャードは次のような答えを出します。すなわち、妖術は、出来事がなぜ(why)特定の人間に危害を加えたのかを説明するのであって、どのようにして(how)それが起きたかを説明するのではないというのです。アザンデ人は、それらがどのようにして起きるかについては、われわれと同じように知っています。上の例で言えば、シロアリが支柱を食い荒らしたから穀物小屋の支柱が倒壊した、ということは知っているのです。妖術は、そのような「原因」を説明するためのものではなく、その倒壊が、なぜ特定の時に、特定の誰かに危害を与えたのかを説明するためのものだというわけです。

2-2.「迷信」からかいま見る生命世界

 エヴァンズ=プリチャードが明らかにした、妖術や祖先の祟りやタブーに違反したから、ある災いが起こったのだという説明体系を、日本の人類学者の長島信弘さん*2は「災因論」と名付けました。災因論は、特定の状況で特定の人になぜ(why)そのような不幸な出来事が起こったかを説明するとともに、その対処法(「オサキを祓う」儀礼をするといったような対処法)を用意している文化的な装置です。そのような文化的装置は、アザンデにかぎらず、どんな文化にもあります。何が「災因」とされるかは文化によってさまざまですが、多くの社会の災因論において「災因」として共通に見られるのは、他人の「呪い(ウィッチクラフト・ソーサリー)」や「死者の祟り」、「年長者の呪詛」、「タブーの違反」あるいは「神の怒り」といったものです。それらのどの「災因」が働いているのか、それを解明するのが災因論という装置に組み込まれている「占い」であり、その答えを求めて人々は自分たちで占ったり占い師を訪ねたりします。
 災因とされるこれらの諸観念は、現代社会では「迷信」とされます。それは科学的ではないから「迷信」なのだと説明されます。そして、「迷信」からの解放が社会の進歩だとされます。しかし、人類学において大事なのは、「迷信」という見方からの解放のほうです。

 すでに述べたように、科学によって説明できるのは、何々の条件の下では誰にでもどこでもいつでも起こるという、一般的な法則だけであって、その出来事が他ならぬ自分になぜ起こったのかは説明できません。けれども、不幸な出来事にあってしまった人が求めている説明は、そのような一般的な法則ではなく、「なぜ、他ならぬ自分に、よりによってそのときに他でもないその場所で」起こったのかという説明のほうです。例えば、ある悲惨な飛行機事故で、出張にでかけた息子が死んだとき、どのように(how)事故が起こったのかという原因を一般化された法則によって解明しても(それは、もう一度同じような事故を起こさないようにするためには必要なことですが)、なぜ息子が他ならぬその飛行機に乗ってしまったのか、他にスタッフはいるのになぜ息子が出張にいくことになってしまったのかという、なぜ(why)に答えたことにはならないでしょう。科学が答えられない、そのような出来事の単独性に解釈を与えるのが災因論なのです。
 つまり、キツネにだまされたという物語やオオサキが家についたという物語は、現代の私たちからすれば科学的論証の彼方にある「迷信」と見なされますが、災因論という視点を導入すれば、それはそもそも科学とは異なることを説明しようという物語なのです。それを、科学という視点から評価すること自体が誤った見方というべきでしょう。そして、災因論の物語は、その背景により大きな「生命世界」または「霊的世界」をもっています。

 上流域の川を歩いていると河原に大きな岩があって、その上に小さな社の祀られていることがある。日本では自然物自体が神として祈りの対象になることがよくあるが、修験道では霊山といわれた山自体が「御神体」である。大木が神として祀られていることも、水自体が「御神水」であることもめずらしくはない。神が降臨し宿ったのではなく、自然の生命それ自体が神であり、その「生命」が岩や水、山として現れているのである。ここには天から神が降臨し、この子孫が神々になっていった「日本」神話とは異なる神々の世界がある。
 山の神、水神、田の神、・・・・・・、村の世界はさまざまな神々の世界であり、それとどこかで結びつくさまざまな生命の世界であった。自分の生きている世界には、「次元の裂け目」のようなものがところどころにあって、その「裂け目」の先には異次元の世界がひろがっていると考える人々も多かった。その異次元の世界に「あの世」をみる人もいた。ときにはオオカミはこの「裂け目」を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人たちもいた。
 可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界、それがかつて村人が感じていた村の世界である。とすれば、天狗やカラス天狗といった生命が山の世界のなかに感じとられていたとしても、それはそのまま受け取っておけばよい、現在の私たちの世界では架空の生き物であったとしても、その頃の村の人たちの生命世界のなかでは感じとられていたものである。
 それが人々がキツネにだまされていた時代の生命世界であった。[内山 2007:29-31]

2-3.次元の裂け目でとらえられる世界

 ここで言われている「次元の裂け目」は、「一連の現象や出来事がかいま見せる、いつもとは違うような世界の表情」のことだと言ってもいいでしょう。それは、科学的に論証可能なこと、知性によって認識される現実とは別の次元の現実があることを現わしています。災因論では、このような「異次元の世界」がそこから広がっている世界の「裂け目」からやってくる存在や力によって「出来事の単独性」が説明され、「リアリティとしての現実」とは次元の異なる「アクチュアリティとしての現実」が把握されるのです。それは非科学的であるゆえに「迷信」というレッテルが貼られますが、科学では説明できない「出来事の単独性」を説明するものなのですから、非科学的になるのは当然だと言うべきでしょう。
 それは、非知性によってとらえられた世界であり、そのかぎりでは個人の幻想ではなく、人々によって共有された世界です。それは客観的な世界ではありませんが、たんなる主観的な世界でもありません。山村に住む村人たちは、ヤマメがどのように生息しているかとか、木の実が不作になる一般的な法則については科学者たちより詳しく知っています。けれども、そのような一般的法則では説明できないこと、知性ではとらえられないことを「裂け目」によって説明するわけです。占い師もまた、村人たちと共有している「生命世界」や、そこにある「次元の裂け目」といった観念によって、特定の「原因」を指し示す役割を果たしているにすぎず、占い師がそれらの「裂け目」をねつ造しているわけではなかったのです。
 ところが、現代社会では、占い師による詐欺まがいの「霊感商法」が問題にされます。「先祖の祟り」だからといって何十万円もする壺とか、悪霊を祓う宝石(ただの安い石)を売りつけるといったものです。「迷信」を批判するときや、科学的精神が必要なんだという人たちがよく持ちだす事例です。けれども、生命世界やその世界の裂け目という感覚・観念を共有している村の世界では、そのような霊感商法は成立しません。霊感商法は、現代社会で不幸に見舞われた人々が、「なぜ」自分に不幸な出来事が起こっているのか? という説明を提供してくれる「災因論」をすでに共有できなくなっている状況で、なおもそのような説明を求めることにつけ込んだ詐欺だからです。いいかえれば、「キツネに騙されなくなった」から「占い師に騙されるようになった」のです。


【参考文献】
エヴァンズ=プリチャード、E.E.
 2000 『アザンデ人の世界――妖術・託宣・呪術』向井元子訳、みすず書房
内山節
 2007 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書

*1:エドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャード(Sir Edward Evan Evans-Pritchard)
1902~1973年。社会人類学者。主にアフリカの政治体系、宗教、親族などを研究し、文化人類学全体に大きな影響を与えた。

*2:長島信弘(ながしま・のぶひろ)
1937年生まれ。文化人類学者。一橋大学名誉教授。競馬通としても知られ、『競馬の人類学』(岩波新書)で第2回JRA馬事文化賞を受賞。

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