第14回:『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』を読む。

1.科学・「日本人」・災因論

1-1.「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問いが
   明らかにするもの

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 内山節さん*1のこの本の『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』というタイトルは、ちょっと不思議な気がします。というのも、昔はキツネにだまされていたということが前提とされているように聞こえるからです。著者自身、次のように書いています。

 私は次第に、なぜこの地域では1965年頃から人がキツネにだまされなくなったのか、という質問をするようになった。人々はこの質問を受けると、しばらく考え、いくつかの答えを出した。もちろんその答えは、社会科学が得意にするような科学的論証性をもったものではない。「俺はこう思うんだ」というようなものである。もっとも本書のテーマに科学的な論証性をもたせようとすれば、そもそも本書自体が成り立たない。すでに気づかれているとは思うが、本当に人はキツネにだまされていたのかということ自身が、科学的な論証性の彼方にあるからである。私が知っているのは、かつて日本の人々はあたり前のようにキツネにだまされながら暮らしていた、あるいはそういう暮らしが自然と人間の関係のなかにあったという山のように多くの物語が存在した、という事実だけである。山のような物語が存在し、その物語が1965年頃を境にして発生しなくなるという事実は証明できても、その物語が事実かどうかは証明不可能、あるいは論証という方法では到達できない事実として存在している。[内山 2007:11-12]

 これは、この本では、「キツネにだまされた」という物語がどうして新しく作られなくなったのかを問題にするのであって、その物語が客観的な事実かどうかは問題にしないということでしょう。ただし、「どうしてキツネにだまされなくなったのか」という問いについても、その答えを人びとに聞くというやり方を採っています(これは人類学的な方法と重なっています)。そこでも、客観的・科学的な論証をするのではないと宣言しているわけです。では、自覚的にこのようなやり方を採ることで、何を明らかにしようとしているのでしょうか。この連載の第13回でキーワードとして説明した「アクチュアリティ」ではないか、というのが私の考えです。つまり、科学的論証性(とそれによるリアリティ)の彼方にある「アクチュアリティ」を明らかにしようとしているのだと言えるでしょう。

1-2.「日本人論」への警鐘

 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問いについて、著者は、もう一つ留意すべき点を挙げています。それは「日本人」という言い方の「あやうさ」です。

 日本について語ろうとするとき、私はつねにある種のあやうさを感じざるをえない。それは日本をひとつのものとしてみてしまう「あやうさ」である。国家を守るために天体の動きを観察し、式神や祭文をもって陰陽道の道を生きた実在の安倍晴明と、葛の葉の子、晴明という民衆の伝説上の晴明との相違。それは精神世界の古層の違い、あるいは霊的世界の違いを私たちにみせてくれる。両者がもっている歴史世界、あるいは霊的歴史世界が違っているといってもよいのだが、異なった霊的歴史のなかに生きている二様の人々ということもできる。

 そういった相違をこえた「日本人論」が登場してくるのは、江戸期の儒学、さらにそれとの結びつきをもった国学においてであろうが、その歴史観を普遍化したなかに明治以降の近代日本が展開する。それは政治的所産であったといってもよく、私たちはまずはその「とらわれた精神」から自由にならなければならない。そしてそのような目で、村々に暮らした民衆の精神的、霊的世界と、そこに展開したキツネと人間のかかわりをみていくことにしよう。[内山 2007:16-17]

 「日本」や「日本人」というとき、あたかもそれが一様であるかのように語ってしまいますが、地域によっても時代によっても階層によっても文化の違いがあります。ここでは、エリート文化と民衆文化の違いが指摘されていると同時に、それを一様なもの、統合されたものとして捉える視点がエリート文化から出てきやすいということにも注意を払っておきましょう。そして、この本では、民衆文化のほうの「歴史」を扱うのだと表明されています。

1-3.物語が教える災因論

 では、「村々に暮らした民衆の精神的、霊的世界」における「キツネにだまされた」という物語がどのような意味を持つ物語なのか、それを見ていきます。ここでは類似した物語として、オオサキ(オサキともいう)という不思議な動物の出てくる物語が取り上げられています。この動物は、人が秤を使うとき、その姿を消して秤の片方に乗り、秤をくるわせて、自分が棲む家の利益になるようにすると言われています。つまり、オオサキの憑いた家はどんどん金持ちになっていくのです。

 村は同じメンバーで暮らすことを基本としている。生まれてから死ぬまで、そればかりか死後の暮らしをふくめて、同じメンバーとともに暮らす。もちろんこの過程では、村から出ていく人もいたり、入ってくる人もいるのだけれど、考え方としては、同じメンバーとともに暮らしていく社会が村である。ところがその村で、隣の家は少しづつ金持ちになっていくのに、自分は少しづつ貧乏になっていく。隣が新しい試みに成功したり、自分の家が何かに失敗したりしたのなら諒解できるが、同じことをしていて少しづつ差が開いていくのはやはり面白くない。そこからギクシャクしたものが生まれてくると、村そのものも雰囲気が悪くなる。
 こういうときに、犯人としてオオサキが登場するのである。実にたくみな役割を担った動物である。ただしオオサキ祓いが真剣なものだったという事実は、私たちの世界は目にはみえない生命や霊的なものの介入をたえず受けながら展開している、という伝統的な人々の考え方を垣間見せる。[内山 2007:21-22]

 キツネにだまされた話とこのオオサキの話が似ているのは、それらの物語が自分たちにとっての不幸や災いの「原因」を説明してくれるものだという点です。キツネにだまされた話の多くは、山を歩いている途中で荷物(食べもの)を失くすというものです。自分や自分の身近な人の身に起こった何か不思議な出来事や、ちょっとした不幸の原因はキツネにあるとしているわけです。
 オオサキのほうは、金持ちになるという話なので、不幸ではなく幸運を説明する話のようにきこえますが、そのような語りや、オオサキを祓う儀礼を行うのは金持ちになった家ではなく、没落した隣の家です。つまりそれは、なぜ自分の家が没落して、隣の家が金持ちになったのかという「不幸」を説明する物語なのです。
 次回、この「災因論」について詳しくみていきます。

 

【参考文献】
内山節
 2007 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書

*1:内山節(うちやま・たかし)
1950年生まれ。哲学者。特定非営利活動法人森づくりフォーラム代表理事など。1970年代より、東京と群馬県上野村を往復して暮らしている。

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