第17回:文化と歴史の相対化

4.「客観的世界」というリアリティ、
   「現象的世界」というアクチュアリティ

4-1.私と、私を包む世界の単独性

 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』第4章の「歴史と『みえない歴史』」で、内山さんは、明治期に山村に来た外国人技師がキツネにだまされなかったという「事件」が不思議な話として語りつがれていたというエピソードを紹介しています。そして、「同じ場所にいても同じ現象はおこらなかったのである。おそらくその理由は、その人を包みこんでいる世界が違うから、なのであろう。村人を包んでいる自然の世界や生命の世界と、その外国人たちを包んでいた自然の世界や生命の世界が、客観的世界としては同じものでも、とらえられた世界としては異なっている。それがこのようなことを生じさせたのだろうと思う」[内山 2007:115]と言っています。
 ここで、注意すべきことは、「共有する文化」や村人たちが共有していた、個人化以前の「生命世界」が、人によってまったく同じものだったというわけではないということです。むしろ、そこには一人ひとりによって違ったふうにとらえられた世界がありました。ちょうど同じ風景を見ても、思い出やそれぞれの経験によって違う意味をもつように。つまり、世界や風景は、それぞれ単独的なものなのです。すでに述べたように、アクチュアリティは単独的なものなのです。そのアクチュアリティの単独性を維持しつつ結びつけているのが「共有する文化」であり、「生命世界」だというわけです。

 内山さんも、1970年代にはじめて群馬県の上野村にやってきたときに見ていた山や森と、いま見ている山や森は、客観的には同じ山や森でも、私を包みこんでいる世界が変わったために現象としては異なるものになっていると述べたあと、次のように言っています。

 人間は客観的世界のなかで生きているのではない。とらえられた世界のなかで生きているのである。とすると、村人はキツネにだまされ、村に滞在した外国人はだまされなかったとしてもそれでよい。なぜなら村人を包んでいる自然や生命の世界、つまり村人によってとらえられた自然や生命の世界と、村に来た外国人によってとらえられた自然や生命の世界は同じではないからである。
 そして、だからこそ私は、1965年頃まで人がキツネにだまされていたという話の真偽は判定不能だと考える。「私」を包んでいる世界、「私」のまわりに現象として展開している世界が違うのである。(中略)しかもその「私」は、現象的世界に包まれた「私」であり、その存在のあり方を共有する村人としての「私たち」と切り離すことのできない「私」である。[内山 2007:117]

 このように、誰とも入れ替わることのできない単独性としての「私」のまわりに、客観的世界とは異なる現象的世界が広がっていて、それに包まれた「私」は、その広がりにおける存在のあり方を共有する村人としての「私たち」と切り離すことのできないものとしてあるということです。単独性どうしのつながりを「共=コモン」と呼んできましたが、その語をつかえば、現象的世界に包まれた「私」は単独的であると同時に、コモンとしての村人とのつながりと切り離すことはできない「私」としてあるのです。
 ここで内山さんが言っている「客観的世界」がリアリティであり、「現象的世界」がアクチュアリティです。そして、ここで言われていることは、人類学でいう「文化相対主義」と重なります。文化相対主義とは、文化によって世界の捉え方が異なっているのだから、他者の文化が自分たちの文化のもつ価値基準から見ると「遅れたもの」とか「迷信」に見えても、「迷信」というレッテルを貼るのではなく(それは「自文化中心主義」とされる)、同等の価値をもつのだとする立場を指します。

4-2.内山さんの「歴史相対主義」

 そのような相対主義的な見方は、「歴史」についての内山さんの議論にも明確に示されています。内山さんは、まず、「客観的世界」の歴史と「現象的世界」の歴史を、「国民の歴史(=中央の歴史)」と「村の歴史」の違いとして述べています。そして、文化相対主義と同じ、歴史相対主義といった感覚が明確に表明されています。

 国民国家、すなわち人間を国民として一元的に統合していく国家は、国民の言語、国民の歴史、国民の文化、国民のスポーツといったさまざまなものを必要とした。求められたのは国民としての共有された世界である。そのひとつが国民の歴史であり、私たちにとっては日本史である。そして、だからこそその歴史は人間の歴史として書かれた。
 かつてさまざまに展開していた「村の歴史」はそのような歴史ではなかった。それは自然と人間が交錯するなかに展開する歴史であり、生者と死者が相互性をもって展開していく歴史であった。なぜなら「村」は生きている人間の社会のことではなく、伝統的には、自然と人間の世界のことであり、生の空間と死の空間が重なり合うなかに展開する世界のことだからである。[内山 2007:131]

 

 「中央の歴史」と「国民の歴史」をダブらせて共有させるためには、歴史は多少の問題はあっても、基本的には良い方向に動いているという、もうひとつの擬制を成立させる必要があった。過去よりは現在の方がマシだという感覚の共有があってこそ、「中央の歴史」、「国民の歴史」は肯定的な合理性を与えられるからである。
 それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば、現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。あるいは今日の社会には、科学や技術の発展という価値基準がある。それを基準にするなら、過去はやはり低位な未発達の社会として描かれる。人権という今日の価値基準にしたがって過去を書いても同じことであろうし、市民社会の発展という価値基準から過去をとらえても同じことであろう。なぜなら過去の社会は、今日的な意味での経済力や科学、技術、人権、市民社会といったものに価値をみいださずに展開していたのだから、今日の基準から過去を考察すれば、みえてくるのは「遅れた社会」である。
 こうして歴史は無意識のうちにおこなわれる「悪意」によって書き直されるのである。ところが、「私たち」にはこの歴史が正統な歴史のように感じられる。なぜなら「私たち」はその価値基準を共有していて、この価値基準を介して生まれた「実感」と書かれた歴史は合致するからである。[内山 2007:132-133]

 今日的な価値基準で過去を描けば、過去が「遅れた低位な社会」とみえてくるのは当然のことであり、その価値基準を共有する私たちがそのような無意識の悪意による描き方を正しいものと感じてしまうということ、それはそのまま、自分たちの文化のもつ価値基準から他の文化を捉えてしまう「自文化中心主義」に当てはまります。つまり、「現在中心主義」や「自文化中心主義」による他文化・他社会の描き方を批判する、文化相対主義・歴史相対主義が表明されていると言えます。
 次回は、この「相対主義」の先に内山さんが見据えていた「生命の歴史」についてお話しします。


【参考文献】
内山節
 2007 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書

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